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荒木町のとんかつ屋さん

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話が自由論の権利義務のところに行くと僕には良く分からない領域に入ってしまうのだが、単純に、人は慣れ親しんだ風景を権利として持っているという議論はよく分かる。景観権というものである。しかしこれは未だ裁判上なかなか権利として確立していないようである。もちろん誰もが認める歴史的な建物の集まった街区の風景とか大自然とか言うものにはある種の権利が認められたり、客観的にあるいは多数決でもその権利を守ろうとする傾向はある。しかし誰もが異口同音にすばらしいというような風景でない場合でもその風景に長年慣れ親しんだ人にとってその風景とはその人の人格の一部であるという考え方がある。それは松原隆一郎の展開している議論だが、僕は共感している。生きられた家があるなら、生きられた風景があると思っている。ナンシーの「はるかなる都市」の解題で僕が書きたかったことはまさにこういうことである。(そういえばこのジャン・リュック・ナンシーの本は2月中に出版される予定だったが、まだ発売されていないどうなっているのだろうか?)風景や都市と人間は共同するということなのである。それゆえそういう人格の一部となった風景はぼろくともなんでも勝手に破壊されていいものではないと思っている。親しんでいる人がいるなら了解がひつようであろう。それは壊してはいけないという議論ではないし、なんでもかんでも残すほうがよいという議論とはまったく異なる。歴史的なものは残して汚いものは残さないという二分法はナンセンスだと言いたいだけである。
さてそんな風景を近くで一生懸命残そうとしている人がいる。荒木町のとんかつ屋「鈴新」の親父さんである。この店には陣内秀信とその研究室の学生が来て調査したり、ダムダムが来て調査したり、女子美の学生が来て町並み計画作ったり、デブやのテレビに出たりと話題の多いお店なのである。この店のそばにあった万世はいい店で花見の名所だったが去年マンションとなり、はす向かいの数件はまとまってマンション業者に最近売られたようである。東京からこうした裏の楽しい場所が消えていく日も近い。しかし新しいところもいつかは古くなる。新たな裏がどこかにできていくのかもしれないが。

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