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Rachel Whiteread

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Rachel Whitereadは1963年ロンドン生まれ。僕より4つ年下である。所謂デミアン・ハース等を含むYBA(young British Artists)の一人である。最近では昨年のテートギャラリータービンホールでのEmbarkmentが話題のようだ。
この作品も見てみたい気がする。しかしここでは彼女の違う側面についての話。
2002年にロンドンで行われた個展のカタログに掲載されたChristiane Schneiderの文章に注目してみる。シュナイダーは‘The Body and The City` と題した文章の中で、Whitereadの作品のスケールに触れている。シュナイダーによれば、Whitereadの彫刻はプロポーションに注意が払われていて、決して、建築的スケールの作品(House という実物大の建物にコンクリート充填したような作品)をミニチュア化しないし、家具スケールの作品(下図バスタブ等)をオルデンバーグのように巨大化したりはしないと述べる。

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続いて60年代の彫刻家ロバート・モリスの言葉を引用する。

自分の身体より小さいものは大きいものより本物とは異なって見える。物はサイズが小さくなれば身近に感じられ、大きくなれば、公共性を増す。

そしてシュナイダーはこう続ける。しかしWhitereadの作品は既述の通りスケールの意図的な変化行わない。そしてその作品はサイズと公私の関係が相対的であることを示しているという。その理由として彼女の作品が作品の独立性に依拠せず、常に周囲のものとの関係性の中に存在していることをあげるのである。

モリスの言うことも頷ける一方シュナイダーの分析はより現代的であるかもしれない。常に関係性の中でものを見ると言うこの現代の視線である。サイズが公私を分けるかどうかは曰く言い難い。バスタブ一つも見る側の意識の中では公かもしれない。しかしこの関係性という言葉が少々曲者でもある。全てはこの関係性という言葉に回収されかねない。そうした疑心暗鬼な向きには、テートの作品は何か新たな展開を見せてくれるのかもしれない。この馬鹿げた大きさにである。そしてこのホールにはWhitereadに限らずここだからできる巨大アートがよく並ぶ。この馬鹿でかさに触れてみたい気もする。残念ながら日本でこれほど大きなものを陳列できるギャラリーは無いのだろうが。

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