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球体写真二元論

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細江英公の「球体写真二元論・細江英公の世界展」を見た。細江は義兄の師であり、義兄が舞踏を撮り続けていたせいもあり、土方を撮ったカマイタチなどの作品は見たことがあった。しかしそれ以上の作品に触れることはなかった。そんな時、展覧会と同名の著書「球体写真二元論」を読みその考え方に共感した。その主旨は、写真とは記録性と表現性という2つの極となるような特徴があるが、自分の写真はそのどちらかというものではなく(例えばキャパの写真は記録性が強いというような意味で)、その2つを両極とする球体の表面を彷徨というものだった。
そして、実は彼にこの一般的に言われる写真の二極性を突きつけたのは三島由紀夫だったようである。細江のデビュー写真集である「薔薇刑」は2年がかりで三島を撮ったものであり、その写真集の序文は三島自身が記したのである。細江は三島が写真の本質は証言性と記録性だと述べていることを紹介し、そして自分はそのどちらにも傾倒したくないということから、この球体写真二元論へと自らのコンセプトを傾けていったと記している。
展覧会場では薔薇刑の写真の撮り方はbaroque mannerであると書かれていた。何を持ってバロックであるのか、そしてバロックという言葉で何を言いたいのか定かではないが細江の初期の写真(薔薇刑とか男と女)では人体の輪郭線のコントラストあるいはその曖昧性がとても重要な表現要素になっている。そうした輪郭線の取り扱い、肉体の流動性、そして写真全体の持っている妖気のようなものをもってバロックなのだろうか?と記した人の思惑を想像した。
さて展覧会に来たのは、この『薔薇刑』が手に入るのではという期待も手伝っていた。確かに薔薇刑は売っているのだが、洋書判であった。三島の序文もそれゆえ英語である。証言性と記録性のところはこう書いてあった。
`It seems to me that before the photograph can exist as art it must, by its very nature, choose whether it is to be a record or a testimony. ・・・・・Hosoe`s art is, supremely, that of the  testimony 
「写真は証言性か記録性のどちらかを選ばざるをえず、・・・細江の写真はまさしく証言性である」と三島は断言しているのである。細江は少なからずこの言葉に抵抗を感じたのであろう。初期の肉体写真から後には写真絵本のようなももあり、その趣向をある位置に定めるのは難しいのは確かである。しかしそうは言っても細江の写真は三島の言うようにtestimony的性格の強いものが多いと私には感じられた。

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