*10.
アンソニー・ヴィドラー、『不気味な建築』、1998(1992)、大島哲蔵/道家洋訳、鹿島出版会
*11.
ibid., p26 フロイトを援用しつつもヴィドラーは英語のuncannyの語義「理解の範囲を超えて」が有効であると述べている。
*12.
オフサイドは、サッカーのルールでありハンドボールには適用されない。あるいはオフサイドトラップを多用するチームにはそれなりの攻め方も現われる。そうした想定でのまた違った攻撃のしかたを考えていくのもこうしたアナロジーの楽しみ方である。
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3、オフサイドトラップ―理解の二重性
アンソニー・ヴィドラーは『不気味な建築』*10の中で抑圧されているものが顕在化したときにそれがuncanny(理解の範囲を超えた状態)*11な様相を呈すると指摘した。もちろんヴィドラーの言及はフロイトの「不気味なもの」を参照し人間が根源的に秘めているものへ向けられているのでやや次元は異なるのだが、ハビトゥスから受けている抑圧から解放された建築にはある明るいuncanninessが見えてくる。僕がこの建物を最初に見た時受けた印象がそうだった、「屋根がやたら大きい、どうして?」という理解不能状態である。大屋根をテーマにした家は他にもいくつかあろう。例えば篠原一男の「大屋根の家」というのがある。しかしああいう大きさとは違う。ガエの場合は、屋根と屋根じゃないところとの比率が普通と違うのである。つまり「きのこ」みたいなのである。「きのこの家」は童話の家であり、現実には存在しない。しかしそのないはずのものがあることの謎にしばし混乱させられるのである。けれどもその混乱は設計プロセスのロジックを理解するなかで、理性的に了解し、その了解が時間経過の中で、場所(法規を含めた)の妥当性という理解へ姿を変える、つまり童話の中から抜け出して現実に定着する。一方で、法規を知らない人にとって「きのこの家」はいつまでも童話の中に謎めいて浮遊しているのかもしれない。が、状況(法、環境)は一見アンカニーなこの建物の理解のヒントを具備しており、何らかのきっかけで現実に定着する可能性も持っている。つまりこの建物は理解の可否の二重性の上に跨っている。
別な言い方をしてみよう。建築場をサッカーフィールドになぞらえるなら。建築にもサッカーにも規則がある。そして建築は文化資本の増大を賭けて、サッカーは勝利を賭け、戦いが行われる。さて一般に「規則」とは「抵触」してはならない対象として存在しているのだが、ガエハウスのように「利用」する対象として「規則」を考えるという戦術もあり得たのである。それはサッカーで言えばルールを最大限利用し、相手を反則に誘い込むオフサイドトラップにあたる。そしてオフサイドトラップにかけられた時の混乱は起り得ないはず(と思い込んでいる)のものが起ることへの意外性から生じ一瞬理解不能な宙刷り状態となる。そして審判の説明を聞き、オフサイドを犯した選手が特定され、やっとこの事態を頭で納得するのである。さて、この場合もサッカーのルールに詳しくない人にとって、オフサイドはついには謎のまま浮遊しているのかもしれない。ここでも、この作戦はルールを境にして理解の可能性上を横断している。
このように、ガエハウスを通して仕掛けられたアトリエワンのオフサイドトラップ*12は理解の二重性を保持している。そしてこの二重性は既に述べた建築家の固有性と状況への応答が生む規範性の別の形での現れでもあり、その二つの性格の共存こそがこの建物の価値を生みだしているのであり、さらに一般的に言うならば使う対象としての規則を考えていく上での支えともなっているのであろう。
初出:『10+1』vol.35
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