ガエハウスのオフサイドトラップ

fig.1
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アトリエワン ミニハウス 東京 1999

*1.
P・ブルデュー、『芸術の規則 I・II』、1995-1996(1992)、石井洋二郎訳、藤原書店

*2.
A. Tzonis, L. Lefaivre, "introduction Between Utopia and Reality: Eight Tendencies in Architecture Since 1968", Architecture in Europe memory and invention since 1968, 1992, Thames and Hudson

fig.2
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フランク・O・ゲーリー Cabrillo Marine Museum San Pedro California 1979

*3.
P・ブルデュー、『ディスタンクシオン I・II』、1990(1979)、石井洋二郎訳、藤原書店

fig.3
fig.3[図版拡大
生活的位置空間、生活様式空間図 P・ブルデュー『ディスタンクシオン I』 P192〜193

*4.
資本の総量とは経済資本、文化資本(広い意味での文化に関わる有形無形の所有物の総体)、社会関係資本(人間関係)の合計値

 アトリエワンの二人には笑顔が絶えない。彼らに論文指導を受けた、とある人曰く「彼らは何にでも笑える人。フツウのできごとでも周りの事がらを取り込んでオモシロク見てしまう人」だそうだ。鉛筆が転がっても笑える女子高校生とはちょっと違う。つまり彼らは、建築環境はもとより、日常生活にいたるまで、一つの対象を単独に見るだけではなくその周囲を含め風景が一番楽しくなるところへフレーミングしてしまう人達なのである。


1、受容の選球眼―フォーボールとルールの場

 フレーミングは、アトリエワンの都市観察眼であると同時に彼等の制作論の骨子でもある。つまり自らの設計対象を環境の中でフレーミングしてオモシロク見るのである。例えばアニ、ミニハウスの隙間とかミニハウスのミニクーパーとかなどである。当然の話だがこうした周辺環境から取り入れたものでその建物の質は変化する。だからこの周辺環境から飛んでくるボールを選び取る選球眼が問われることになる。
 ところで選球するためにはそれなりの基準あるいはルールが必要で、こうしたルールの発生メカニズムを知る上でピエール・ブルデューの『芸術の規則』*1で提示された「場」という概念は興味深い。「場」とは、建築で言えば、クライアント、建築家、そしてそれを見る人々、評価する批評家などの一連のグループの上に出来上がっている一つの世界のことである。この世界は当然そこで通用する(あるいはそこでしか通用しない)ルールを持つこということである。そしてルールは建築家単独で作るというよりは場を作る社会全体の作用として出来上がる。
 それに基づいて類似例を見るなら、ダーティーリアリズムと分類され、‘make stone stony’*2と形容された初期フランク・O・ゲーリーやジャン・ヌーベルの工業材料の使用も周辺環境から飛んでくるボールの選球眼だった。そこでの工業材料の取り込みはそうした敷地でのカメレオン的な馴染みとして建築家の主体的デザインであると同時に、社会の受容を計算したものだったに違いない。そして、それは都市の辺境から取り出してきた、もともとダーティーと思われている材料を使いこむことでそれらの価値を倒立させようという目論見があっただろう。つまり‘make stone shiny’を狙う選択というルールができあがっていたのである。
 アトリエワンの視線も少なからずこれにパラレルである。隙間から、隣家の塀から、柿ノ木から、車から、今まで「潜在」していたものを「顕在」化させるその狙いは価値倒立であり、使用前、使用後の差が重要なのである。となれば、使用前は極力凡庸な方が良い、そしてある時変身する。それはあたかも将棋の「歩」が「金」になるようなものであり、「ボール4つ」で「出塁」できるフォアボールのようなものである。
 さて少し本筋からはずれるのだが、アトリエワンの「場」やルールにもう少し接近すべくブルデューの作った社会のライフスタイルマップ*3(この座標軸は縦軸に資本総量*4、横軸は経済資本と文化資本が交差構造を成している)にアトリエワンをプロットしてみよう。もちろん20年以上も前の異国の社会縮図に、現代日本の建築家をプロットすることは厳密には意味を成さないが、先進国のある種の類似性を基盤にしたラフな実験をしてみよう。そうすると彼等プロフェッサーアーキテクトは「高等教育教授」あたり、つまり左上に位置している。そしてその周辺を概観していくと気付くことがある。それは彼らが自らのポジション周辺だけではなく、左下方を包含する広範なエリアを自らの建築場としているだろうことである。例えば、彼等の建築はクセナキスを聞きながらチェスをして骨董屋で手に入れた100年前のクリストフルの銀製のスプーンで食事をしながら政治評論をするというような場所というよりは、ジーンズはいてビール飲みながら、テレビでサッカーを見ていたかと思えば、オペラを聞きながら哲学書を読むなんていう風にイメージできるのである。(もちろんこのイメージは彼らのキャラクターを通して推測したことに過ぎないが、建築家とクライアントには「類は友を呼ぶ関係」がありマクロかつ長期的みれば近似するであろう。)

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