*5.
P・ブルデュー、 『芸術の規則 II』、 op.cit., p13, ブルデューはパノフスキーの『ゴシック建築とスコラ学』を仏訳した際にパノフスキーの精神的習慣(mental habit)という概念から自らのハビトゥス(habitus)概念に至ったことを述懐している。
*6.
ブルデューのこうした構造主義的論理構成への批判は多々あるが、我々が設計の現場で様々なクライアントに出会い感ずるシンパシーや違和感はハビトゥスの差異あるいは同一性を感知しているからに他ならない。
*7.
小田部胤久、「様式とハビトゥス」、山田忠彰・小田部胤久、2000、『スタイルの詩学』p.227、ナカニシヤ出版
*8.
原広司、『空間〈機能から様相へ〉』p.33、1987、岩波書店
*9.
P・ブルデュー、『ディスタンクシオンT』op.cit.,p.vi 慣習行動[プラティーク pratique]:人が日常生活のあらゆる領域においえて普段行っている様々な行動。
fig.4
アトリエワン ガエハウス 東京 2003
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2、場への応答―法規をめぐるハビトゥス
さてこれらの建築場では上述のとおり、その「場」毎に差異のある文化構造が想定されることになる。そしてその文化構造の中には人々の慣習行動とその慣習行動を方向付けるシステムが存在する。このシステムは科学で言うパラダイムに近いものであり、時代に共通な嗜好、行動の枠組みと言ってよいだろう。ブルデューはこの枠組みを「ハビトゥス」*5と呼んだ。そしてそれは暗黙裡に人の行動を抑制するものであると同時に、逆にそこへの応答をしてやることでそれ自身を更新していくことができるものとしてブルデューは定義した*6。
さてこうしたハビトゥスのもとで建築が行われる時、その行為はその本性上、ハビトゥスを拒み、ハビトゥスを更新することを目論むものだ。しかしでは、建築家は一体そこで何を更新できる、あるいはすべきなのだろうか?
やや遠回りであるがブルデューに依拠しつつハビトゥスと新しい様式の創出の関係に言及した小田部胤久の指摘を瞥見しておこう。
所与のハビトゥス(即ち構造化された構造としてのハビトゥス)にとどまることなく、芸術場のはらむ問題状況との出会いを通して自らのハビトゥスを変革しうる芸術家こそ、様式の変化を引き起こし、新たな様式を、すなわちその芸術家に固有の個人様式を造りだすであろう。そして、この新様式はなるほどその芸術家固有のもの(=独創的なもの)であるとはいえ、同時にある一定の問題状況への応答として成立している限りにおいて、規範的意義を担うことになる。*7
芸術家が作り上げたものが、新しい様式であるかどうかはここでは問わない。重要なのは、状況へ応答する中でハビトゥスを刷新した時に、そこに単なる独創性だけではなく規範性が現われるであろうという氏の指摘である。建築が独創性だけでは成立しにくい現在、この言葉から得るものは大きい。そこでこの視点に立脚しアトリエワンのハビトゥス更新のプロセスを観察してみたい。そのために先ず、彼等の建築場のはらむ問題状況を概観する必要があるのだが、いくつか指摘し得ることの中からここでは彼等の建築が頻繁に遭遇している狭小敷地という条件に絞って考えてみたい。もちろん建築であるから、こうした与条件が恒常的であるとは言えないし、彼等のこれまでの仕事が全てその条件下にあるわけではない。しかし例えば既述社会マップにおける彼等の建築場(左側半分)が比較的経済資本の小さいところであることは、都会の住宅建築における予算の大半を占める土地代の圧迫を招き、ひいては敷地の狭小化に帰結するであろう。また、その昔の原広司の指摘:敷地が狭いと「外的因子」の影響が大きく建物に場所性が表れてしまう*8、を逆読みすれば外的因子を取り込むには敷地は狭いほど都合が良いということになる。つまり、彼等の建築場が保持する経済的条件と、彼等が建築的に志向する方向性はどちらも狭小敷地を呼び込んでいるのである。
狭小敷地が保持する様々な問題系の一つは法規である。なぜなら法規は敷地境界線からドライに建物形状を決定していくものであるからだ。そしてこの法規に対してもハビトゥスが慣習行動(プラティーク)を生産してきた*9。そのプラティークとは「法規の形状規定で建物の形が決定されたように見えないようにデザインする」というようなものである。このプラティークを生産しているのは「法規はアプリオリに必要悪であり、デザインとはあくまで建築家の主体的行為でなければならない」というハビトゥスなのである。しかし、狭小敷地において、建築の形が法を露呈することになるのは避けられないだろうし、そもそも前述のハビトゥスにどれだけの意義があるのか?
さて遅くなったが、斜線制限内に可能な容積を即物的に入れ込んだアトリエワン設計のガエハウスの一つの重要な意義はこの「建築家○、法規×」というハビトゥスに対して、「そんなことないんじゃないの」というスタンスを示し建築場にこびりついた無根拠な垢を一掃してくれたことにある。そしてこの一掃は、冒頭述べたアトリエワンの選球眼に内在する価値倒立にも支えられている。ただここでの価値倒立は単に凡庸を光り輝かせることではなく、忌避すべきものを呼び込み輝かせる行為であり、フォアボールを選ぶというよりは、内角ぎりぎりの危ないボールに自ら当たりにいってデッドボールをとって出塁するという感じである。また、同時にこのことは小田部が主張するように法規という建築場全体にわたる問題系への改変としてある規範性(一般性)を持っていることを忘れてはいけない。
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