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建築は設計者とクライアントの運命的出会いが作るもの

ジムに行ってヨガしてからチャリで国立近代美術館へ行きオルジャッティ展を見る。http://ofda.jp/column/とてもよかった。帰りは半蔵門近くのスタバで休憩。
そこで鈴木志郎康のエッセイ集である『結局、極私的ラディカリズムなんだ―鈴木志郎康表現論エッセイ集』2011をマンゴジェラードを飲みながら眺める。その中にこんなことが書かれている。
鈴木自身の撮っているような映画は個人映画と呼ばれ、映画館でやっているような営利目的のものとは少々異なり自叙伝のような意味がある。その個人映画について彼はこう言う。個人映画は商業主義的ベースから外れるので作者が思いのままに表現を実現できるので見た人から理解されないことも起こる。すると独りよがりとか自慰的だと非難される。しかしたとえそうであれこれは人間の表現であり、こうした映像コミュニケーションの変化が個と個の関係の在り方を変えていく。と言う。そしてなにより大事なのは自分の表現を何処まで思いのままにやりきるれるかということだと締めくくる。

詩人で映画作家の鈴木志郎康は篠原一男の某住宅のクライアントである。僕は一度訪れたことがあり、鈴木の家としてぴったりだとその昔感じた。建築と映像表現はもちろん次元が異なるし、まして個人映画はそれこそ自叙伝のようなものである。でも鈴木の上の言葉はあたかもクライアント鈴木が設計者篠原に言ったかのように錯覚する。つまりあの家はまさに篠原の表現を思いのままにやりきったものと見えるからだ。

建築は設計者とクライアントの運命的出会いが作るものでもある。

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