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出来事

朝一でk-project施主定例。色やら位置やら、クライアントの意向も気になる部分を説明して了解していただいた。今日は2階のトップライト下のFRPハニカムパネルの床が搬入設置された。光は無事このFRPを透過して1階の床まで届く。期待通りのいい光である。午後の打ち合わせで神田へ行く途中、品川で下車して原美術館に寄る。ジム・ランビーの縞縞を見る。http://ofda.jp/column/手作り的でクールに見えて泥臭い。ミュージアムショップに寄るとその昔見た、オラファーのカタログが売られていた。展覧会中はまだできてなかったそうだ。分厚く重いが充実しているので買ってきた。午後中国プロジェクトの現場報告。久しぶりに社長と会う。サステイナブルシティの仕事の可能性をいくつか聞かされるがまだどうなることやら。夜のアサマで長野に。車中、岡真理『記憶/物語』岩波書店2000を読む。この本を読むきっかけは誰かの本に引用されていた以下の文章が気になったから。
「<出来事>が言葉で再現されるなら必ずや再現された『現実』の外部に<出来事>の余剰があること。<出来事>とはつねにそのようなある過剰さをはらみもっており、その過剰さこそが<出来事>を<出来事>たらしめている」
この本を読んでみると、再現不可能な過剰を、しかし、われわれは再現して分有しなければいけないというのが著者の言わんとするところ。表現者とは常に表現すべきことの過剰性と戦うのであろう。しかし過剰性が再現不可能性を内在させているのであればこの矛盾と僕らはどう向き合えば良いのだろうか???続きは明日。

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