過剰の表現とは
午前中修士の2次試験。午後コンペの打ち合わせ。その後4年、M2の様子を見る。夜学生たちとスパゲッティを食べに行く。食後昨日読みかけた岡真理『記憶/物語』岩波書店2000の続きを読む。再現不可能な出来事の過剰を我々はどう扱うのか?岡さんはホロコーストや従軍慰安婦の問題などについてその出来事の過剰さに言及し、それを我々は再現しなければならないし、分有しなければならないと言う。そうだと思う。しかしその方法は表現者の主体が出来事を「まとめる」という方向性ではなく、出来事が主体を「まとめる」という方向性でなくてはならないと言う。さてその場合どういうことが起こるか?出来事の過剰が主体の正常な抽象化を妨げる、あるいは狂わせる。その結果その主体の精神の疵としてほとんど無意識のようにその疵が表出される。そうした状態の中に受容する方は出来事の過剰を感得するのであろう。というのが岡さんの主張である。美しい情景を話して聞かせようと躍起になっている人間がいくら言葉を尽くしても伝えられないのに、例えば、ふっとした言葉の間に見せた遠くを見つめる透明な眼が多くを語ったりする。ちょっと次元は異なれど、表現と言う意味では建築にも似たようなことが起こり得る。建築も一つの出来事である。それは建築家と敷地との出会いであり、クライアントとの出会いであり、あるいは要求との葛藤からひらめいた自らの思考との出会いでもある。それらは一つのあるいは複数の出来事であり、その出来事の翻訳化された再現なのだと思う。そしてこうした出来事もホロコーストと比べるべくもないとしても、それでも過剰であり再現不可能性を持っている。しかし表現者はそうした過剰を表現するしかないのである。そしてその過剰を表現するためには主体が出来事を「まとめる」のではなく出来事が主体を「まとめる」のでなければなるまい。そのためには出来事に自らを晒し、こちらから「まとめ」にはいるベクトルを捨てなければならない。自分をして出来事を語らせる。そうした姿勢の結果として絞り出す何かが今アクチュアルな表現なのだと思う。