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モダンの並走

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ジョージ・マイアソンが『エコロジーとポストモダンの終焉』野田三貴訳、岩波2007(2001) の中で一風変わった指摘をしている。この本は原著のタイトルはpostmodern encounters ecology and the end of the postmodernityでありポストモダニズムがエコロジー問題に直面してそのポストモダニズム性を終了させたと言うものである。そして本書の内容は原文のタイトルが示すとおり、モダニズムが科学というメタ文化によって駆動していたのに対してポストモダニズムがその科学への一元的な信頼に疑義を提示し、しかしまた現在エコロジーにまつわる科学的言説がメタ文化になりつつあるというものである。ここでメタ文化と言っているのは抗しがたい文化誘導力のようなものである。確かにモダニズムとは文化の様々なジャンルが(芸術をも含めて)科学へ憧れ科学的であることが1つの規範になっていた。そこでは科学は拡大解釈され工業的なものも是となったと言ってもいいかもしれない。それに対し、ポストモダニズムは様々な形で疑義を呈したものの、現在のエコロジーは前世紀の初頭に科学が持っていたと同等な抗し難い力を持ち始めたというのである。著者はそれゆえこうした現在は再びモダニズムであるという言い方をする。時代の命名はともかくとしても科学に対するこうした認識はあながち間違いではないと言えるであろう。
こんな本を飛行機の中で読みながらこの3日滞在した中国を思い出しながら少し考えさせられた。帰りがけ上海郊外の大倉(たいそう)からプードンの空港に向かう途中上海市内を通った。1年前来たときには姿かたちも無かった(と記憶するが)新たな森ビルの超高層がほぼ完成していた。設計者はアメリカのKPFである。これまで上海1高かったジンマオタワーの道路を隔てた目の前に建っている。もちろんジンマオより遥かに高く現在上海1高い超高層になろうとしている。上海に雨後の筍の如く超高層が立ち上がるのはもちろん中国経済の好調の反映であろうが、一方でそれを支えているものの一つは世界的な企業技術の積極的な誘致である。そうした科学技術への期待がこの林立する超高層に滲み出ているように私には感じられた。その意味では中国は「まだモダン」なのである。
一方私の中国滞在の目的であるリサイクル工場の建設地である大倉には数百というリサイクル施設が世界中から誘致されようとしている。ゴミの分別さえ行なわれていない、この国でリサイクルへの国を挙げての積極的な運動はマイアソンが指摘するように、もはやエコロジーが抗しがたい科学的結果として突きつけられていることの証と思われる。その意味ではここで起こっていることは「またモダン」である。と言うことになる。
マイアソンの指摘はモダンに続いてポストモダンが起こり、そして再びモダンが起こるという順番なのだが、ここ中国では最初のモダンと後のモダンが横並びであるかのようだ。中国の現代史を正確に知りもしない人間がなんとなく状況的な事実だけを捕まえて思うことであるが、この横並びを見るとき、一体中国にはポストモダンと言う状況はあったのだろうか?もちろん建築のデザインやなどにはグローバルなデザイナーがその時代を刻印して言った結果としてポストモダニズムのデザインは存在する。しかしそれは中国の思想とは思いがたい。つまりは一貫して科学は抗しがたいメタ文化だったのではないだろうか?
このモダンの並走を見ながらふとそんな気持ちに駆られた。

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