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風俗・風景の発見

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オランダ風俗画を集めた展覧会が国立新美術館で行なわれている。フェルメールの「牛乳を注ぐ女」がその目玉として展示されている。17世紀オランダは東インド会社を設立し、海上帝国を築いた。これによって巨万の富を蓄え富裕層が生まれ彼らがパトロンとなり多くの優れた画家を輩出したといわれている。そしてそれまでの宗教的モチーフから新たに風景画や風俗画と呼ばれるジャンルが生まれた。
よく言われることだが、こうした新たなジャンルが生まれるということはこうした対象が新たに人々の興味を惹く対象となったことを意味する。例えば風俗画の対象となったものとしてこんなものがある。女性、家族、室内、貧富、酒場、今までどうでもよかった日常の一コマ、あるいは社会現象というものが人々の興味にあがってきたということである。人々が興味を抱くのと画家が描くのとどちらが先かはよく分からない。多分並行的な現象だと思うのだが、いずれにしても火の無いところに煙は立たない。
フェルメールから約400年後の我々は風俗画というひとつの絵画のジャンルを知っていて脳みそのそういうジャンルのひきだしの中に見た画像を記憶するようにできている。そしてそのジャンルの今までの記憶や言説に照らし合わせながら今見たものを鑑賞するようしつけられている。
さて同様に風景というものもこの頃人々の関心の対象となったのであろう。風景画というジャンルもこの頃できたようである。菅原潤さんという方の書いた「風景/風景化と倫理」なる論考によれば風景とは景観を受容者が対象化してそれをその主体として了解することによって初めて生じるものであると言う(和辻論理からの引用であろう)。これは大変な作業である。普通我々はいい風景というものを教育されるものである。世の中にはいい風景というものが決められている。そしてそういういい風景はまた異国のいい景色から学んで選択されていたりするのである。例えば昭和2年日本八景が選定された。この選定を支える美意識は中国の瀟湘八景の焼き直しだと内藤湖南が指摘した(菅原)。これが示すとおり新鮮な風景の発見というものはなかなか無いものである。我々は誰かが発見して対象化したものを一つの価値として受け継ぐようにできているものである。そういう中にあって自己が主体的にある景観を了解して風景化することはこれからの風景論に欠かせない。近年話題のテクノスケープなどはその例である。17世紀のオランダのアーティストが風俗的主題を発見したように21世紀の日本人は新たな風景を発見できるだろうか?風俗画を見ながら風景に思いを募らせた。

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