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2006年05月29日

球体二元論

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細江英公の『球体写真二元論』を読んだ。写真において二元論とは何かという細江の問いなのである。彼の写真集に『薔薇刑』(1963)という三島由紀夫を撮ったものがある。その中に「細江英公序説」とい三島の文章がある。そこで三島は「写真とは記録性と證言性(証言性)の二者択一」だと書いている。これは古典的な写真論と同じことを言っているそうで一般には「記録性」と「表現性」と言うそうだ。また1978年にはMOMAの写真部長ジョン・シャカフスキーが「写真を自己表現(self expression)と調査(exploration)の二種類に大別」したそうである。しかし細江は写真とはこのどちらかではなくその両方であり、その両極を持つ地球の上をどちらかの極に引き寄せられながら作り上げるもので、どちらによるかは被写体によるというのである。
この両極説は僕のモノサシとまったく同じ考えでありとてもびっくりしたのである。更に言うと細江のこの考えはアメリカの歴史心理学者ロバート・リフトンが『Protean self』のなかで記していると言う。そこではこの激変する世界に生き残るためには変幻自在に生きる術が必要でその術をギリシャ神話のプロテウス神になぞらえて「proteanーself」(プロテウス的自己)と呼んでいるそうである。とても興味深い。

2006年05月21日

いろいろやって散漫じゃないこと

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一ヶ月前くらいに友人からもらったフライヤーの写真。とても気に入っている。このサザエさんが爆発したようなヘアスタイルで、どこにでもいそうなおばさん顔がいい。(失礼)そのおばさんが井戸端会議で眉間に皺を寄せて誰かの悪口を言っているようなポーズと顔つきがまたいい。
しかしよくよく見ると風にたなびいているように見える髪の毛と雲に乗って空を飛んでいるような姿勢、裸同然の姿はごろごろさまという風にも見える。
更にもう少し状況がわかればこれはまあどう考えたって多分コンテンポラリーダンスだろうと思わざるを得ないようなショットであり、よくよく見ればtakeya akemiではないか!!なんて別に知らないけれどフライヤーには書いてあるわけである。

よく言われることかもしれないけれど、いろいろんな世界を一気に引き受けてしまうというのがとてもいい。サザエさんで、ごろごろさまで、コンテンポラリーというその多層性が一枚の写真に現われている。それでもって散漫ではない。これで散漫だと全然駄目なんだけどこれだけ表現の強度があっていろいろやってるところがいいと思うのだがどうだろうか?

2006年05月14日

建築はインタラクティブになれるか?

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昨日リーテム東京工場でリーテムのプロモーションビデオを見せてもらった。音と映像のコンビネーションはとても心地良いものだった。制作はsetenv音楽は徳井直生さんである。徳井さんは前にもリーテムの工場の音をサンプリングして作曲してもらったことがある。東大で電子工学を専攻されながら音を中心に、人間とコンピューターの新しいインタラクションの形を模索されていると聞く。

Inter communicationの47号がcodeの特集で徳井さんの「ソフトウェアはアートになりうるか」という論考が載っている。因みに巻頭は山形浩生氏の「アルゴリズムとしてのアート」である。徳井さんの論考はソフトウェアのプログラム自体の美しさ(それって、数学的美しさのことなんでしょうねきっと)のことやらアーティストによるプログラミング可能性、生成性の探求に言及されていた。
音楽やアートのある部分でこのインンタラクティビティへの可能性が追求されているのだが果たして建築にそうした軽やかなスタンスは可能なのだろうか?
昨日リーテムの見学を終えてパーティーの後2次会でとある先輩が、こう言った。「坂牛の建築はやっぱり「モノ」だよなあ。近田さんの照明ももろに「モノ」だ。でも僕は「コト」の建築ができないかと思うんだよなあ、、、、、」でも学生には「先生建築はなんやかんや言ってやっぱり「モノ」でしょうといわれるんだよ、、、、、」と酔っ払って堂々巡りしている。でもこの先輩の言うことは痛いほどよく分かる。僕はやはり建築のライブ性のようなもの、ステージ性のようなものをおぼろげにいつも思っているわけで「坂牛の建築は「モノ」だと言われると少し反論したくなる。もちろん刀根さんの作品のようなインタラクテイビティを建築で作ろうなんて思ってはいない。しかし、違うレベルでは建築の軽やかさ(非固定性)が作れるとは考えているのだが。

2006年05月07日

ロダンから学ぶこと

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カリエールとロダンの展覧会が上野の国立西洋美術館で行われている。無料券をいただいたので連休初日、長野から東京駅に着き、上野まで足を伸ばした。
うーん、カリエールという人、素描がうまいのに感心してしまう。ロダンはカリエールを彫刻家だ言ったそうだがその気持ちがよく分かる。それほど素描がうまい。

ところで、このカリエールの油はその素描とともに、背景の中に前景が溶け込むようなものばかりである。昔ウルトラQという怪物番組の最初にその字が浮かび上がる有名なシーンがあった。それは「ウルトラQ」がどろどろのマーブル状態から字に形成されてくるシーンである。つまり図が無い状態から図が背景から浮かびあがってくるのである。カリエールの絵は全てそんな風であった。いっぽうロダンの彫刻にも、そうした風なものがある時期いくつか生まれる。石の塊という背景から図としての顔や手が部分的に浮かび上がるのである。
この石の奥に(形にならないところに)図(形になったものの)の意味が潜んでいることから両者は象徴主義と呼ばれたのだが、そのあたりの分類はさておき、こうした地から図がうっすらと浮かび上がり溶け込むという図式がとても気になった。こうした建築があり得ないかと常日頃考えていたからである。建築というのはどうしても構成的で、壁は壁、床は床と考えてしまいがちなものである。グラジュアルにものは変化しにくいのである。床から徐々に壁になりそして天井へと変化していくような情景は考えにくいのである。もちろんコールハースなどがそうしたグラジュアリティのある形式を生んだのも事実だが、更にその先もあるような気がするのである。別に一枚の壁の中だけ考えても、壁のある部分が図化してある部分は地でもよいのである。それが徐々に変化するということがあるのではないかと思うのである。