ロダンから学ぶこと
カリエールとロダンの展覧会が上野の国立西洋美術館で行われている。無料券をいただいたので連休初日、長野から東京駅に着き、上野まで足を伸ばした。
うーん、カリエールという人、素描がうまいのに感心してしまう。ロダンはカリエールを彫刻家だ言ったそうだがその気持ちがよく分かる。それほど素描がうまい。
ところで、このカリエールの油はその素描とともに、背景の中に前景が溶け込むようなものばかりである。昔ウルトラQという怪物番組の最初にその字が浮かび上がる有名なシーンがあった。それは「ウルトラQ」がどろどろのマーブル状態から字に形成されてくるシーンである。つまり図が無い状態から図が背景から浮かびあがってくるのである。カリエールの絵は全てそんな風であった。いっぽうロダンの彫刻にも、そうした風なものがある時期いくつか生まれる。石の塊という背景から図としての顔や手が部分的に浮かび上がるのである。
この石の奥に(形にならないところに)図(形になったものの)の意味が潜んでいることから両者は象徴主義と呼ばれたのだが、そのあたりの分類はさておき、こうした地から図がうっすらと浮かび上がり溶け込むという図式がとても気になった。こうした建築があり得ないかと常日頃考えていたからである。建築というのはどうしても構成的で、壁は壁、床は床と考えてしまいがちなものである。グラジュアルにものは変化しにくいのである。床から徐々に壁になりそして天井へと変化していくような情景は考えにくいのである。もちろんコールハースなどがそうしたグラジュアリティのある形式を生んだのも事実だが、更にその先もあるような気がするのである。別に一枚の壁の中だけ考えても、壁のある部分が図化してある部分は地でもよいのである。それが徐々に変化するということがあるのではないかと思うのである。