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私の嫌いなよく聞く言葉

難波和彦氏がブログの中で東大の卒計について批判的にこう記している
「どこかで見た建築的手法、誰もが反論することのできない正しいテーマ設定、あるいはすでに卒業設計の敷地として使い古されているような場所での提案が多く、自分が戦うフィールドを予め限った上での、こじんまりとした提案が多かったことは残念である。」
この言葉の中で「誰もが反論することのできない正しいテーマ」への批判は共感する。僕の大学でも卒計、修士設計ともども皆先ずここから始まる。これはどう考えても弱気のスタートだ。正に難波氏の言う「こじんまりとした提案」へと向かう第一歩なのである。なぜならこうした倫理的に正しいとされる概念はその言葉が終着点となってしまうことが多い。その言葉以上に論理的に考えを深化させにくいし、安心して発展せず思考停止へと向かうのである。
煮ても焼いても食えない僕の嫌いなそんな言葉を三つほど。

1位:なんと言っても一番嫌いなのは「気持ちいい」。これは「かっこいい」と同程度に幼稚である。あなたの気持ちいいと私の気持ちいいが同じだという保証はない。カントを持ち出すまでもなく快不快の感情は共有できないのである。
2位:次は「自由」。これは下手に否定すると墓穴を掘るのだが「気持ちいい」に続いてあまりに安易にだれでも使う。政治的な含意の正当性が建築において理由もなく適用可能となってしまう。自由は不自由があってこその概念のはずである。野原の真ん中にいることは決して自由ではないはずだ。
3位:「環境」これも反論しようのない正しいテーマである。建築を設計することはどう考えても環境にプラスになることはない。先ずそこを理解したうえでこの手のことは主張しなければならない。さらに環境の様々な要素はコンパティブルとは限らない、つまりこちらを尊重すればこちらが駄目になるものである。評価の方法はかなり複雑。だからかなり条件を限定した評価になることが多い。しかし限定された環境評価など意味はないのである。

先日読んだ仲正昌樹『デリダの遺言』で著者は「生き生きした言葉」が尊重される昨今の社会の風潮を危険視している。生き生きしていればそれでいい、言葉がステレオタイプ化されることへの警鐘を鳴らしている。上記の僕の嫌いな言葉はこの「生き生きさ」につながるところかもしれない。人間は生き生きした言葉や活動をなかなか否定できない。この否定できない正しさは反論できずステレオタイプ化し思考停止を招くのである。しかし上記言葉も本当はとても奥深い概念であり、この手垢のついた状態で葵の御紋のように使うことにイライラするのであり、真摯に思考する対象であることは否定しない。

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