設計行為の意味
先日某プロジェクトのプレゼンをした後で当日来られなかったお年をめしたクライアントの一人からメールをいただいた(この方には出席された方が資料を渡してくれた)。「私の要望がまったく考慮されていない」とのお叱りであった。この手の行き違いはプロジェクトの最初の段階にはよくあることであり、あまり驚きもしない。特に住宅の場合、しかもお年寄りであれば自らの数十年の生活を引きずっているのであり、それを数回の打ち合わせで聞きだせると思うほどこちらも楽観的でもない。
しかしこちらもプロとしての沽券があり、丁重にお詫びをしながらも建築家たるものクライアントの条件を鵜呑みにするものでもなく、潜在的なクライアントの豊かさをも射程にいれての計画であることを知らせる。
さて、こうしたプロジェクト初期におけるクライアントの違和感とはその方の培ってきた個人的な生活に起因する問題なのだろうか?否、そうではない。それはクライアント一個人の習慣ではなく、クライアンをとりまく社会が作り上げてきたたものに起因する。建築史の教科書を紐解くまでも無くある時代には、ある時代のある階層(つまりはある個人をとりまく社会)特有の建物および生活のスタイルがある。そのスタイルは様式などとも呼ばれある一定期間存続することになる。現代はそうしたスタイルが希薄にと思われがちだが確固として存在する。そして家の建て替え時に、クライアントはこうしたスタイル(文化構造と言っても良いだろうが)の再生産をイージーに行う方向に流れるのである。自分にとって最も身近なモデルを規範としてそこに新たなニーズを適応させるというのが最も簡単で楽な方法なのである。
これが所謂構造主義的な事態の捉え方である。そしてクライアント、建築家はそうした文化再生産の一要素としてメカニカルに動いていると言える。しかし一方で、当然僕等建築家、そしてクライアントも社会のそして自らの殻を破りたく、文化構造からの規制を破り、新たな挑戦が行われるのである。社会の慣習的行動(社会構造)をハビトゥスと呼んだブルデューの有名な定式「ハビトゥスは『構造化する構造』にして『構造化された構造』」の意味もギデンズが行為は構造に規制されつつも新たな規則を生み出していくという構造の循環的二重性という概念もみなこのシステムを破ろうとする行為の主意主義的な原理に着目してのことである。
話は原理的なところにそれたが、設計という行為は常にこの住み方やら使い方の習慣がつくりあげた幻想的な善に大きく規定されつつも、そのシステムに対する懐疑、本当に自らの欲するものへの洞察がそうしたシステムを更新するその葛藤の中で行われていくべきものである。そしてそれだからこそ設計という行為の存在意義があることを設計者もクライアントも了解してなければならない。つまり設計者は何に対して対価をもらっているのか、クライアントは何に対して払っているのか、を双方よく自覚して始めて意味のある設計行為が生まれるのである。