最初に
setenvの並々ならぬ努力おかげでやっとofdaのホームページも新たになりました。そしてこのコラム欄というのを作りました。これは普段一緒にいながらもなかなか建築の突っ込んだ話ができずにいる状態解消して些細なことでも少し口に出してみよう、というのが主旨です。使用のルールですが、基本的に(坂牛)と木島、伊藤、で毎週なんか言います。その言い方のルールはまあできれば前の人のを少し連歌のように受けてもらえればありがたいけれど受けきれない時はご自由に。そしてスタッフの方その他だれでもそこに関連して何か言う場合はコメント欄からどうぞ。
まあどうなるか分かりませんが、とにかくやってみましょう。楽に。
最初のお話は僕が最近気になっていてちょっとしらべてみようかなと思っていること、某建築一般誌『a』の研究動機について記します。
私は某新書の編集長と2年くらい前から昨今の建築について何か書く話をしております。
その大きなテーマは建築がエンターテイメント化されてきた(つまり付加価値化されてきた)時にそれを「いい」「悪い」言う言葉を教えてあげようというものです(した)。つまりワインにはソムリエがいて「甘い」「辛い」とか、「重い」「軽い」とか言葉があり、それを雑誌やテレビで覚えて楽しくそれを使います。それと同様に、建築を見てそういえる言葉を勉強しようというものでした。実はそれは建築のモノサシ10と称して、10の対語を選んで東大の授業で教えたものだったのです。
さてその後実は『言葉と建築』というイギリスのデザイン史家が書いた本を翻訳してまして、やっと翻訳が修了して12月25日頃鹿島から出版されます。この本は建築のデザインは建築家のデザイン力によって作られているというのは幻想で、その時代の言葉がその時代の空気や社会や文化や科学を象徴しておりそれが建築を作るときの基礎になっていると主張するのです。つまりは言葉が(ということは社会が)建築を作っているという内容です。この話しは読めば読むほどなるほどと思わせるもので、やはり建築は言葉に左右されると感じているのです。
さてそんな中この4月から信州に来て、2年ほど前から考えている建築と言葉を翻訳の知識をもとに考え直しつつ、もう少し基礎的な研究をしようと考えました。そこで先ず、建築が付加価値化している現状とは何かを考えてみます。そうすると90年代に10冊以上に及ぶ建築一般誌と呼ばれるものが創刊し建築専門誌と呼ばれるものが数誌廃刊したことに思いが至ります。これは二つのことを意味しています。ひとつは住宅を建てようという人が増えさらにそうした人が専門家に投げちゃうのではなく、自分で考えようとしていること。一方、住宅を建てるというのとはあまり関係なく、ファッション紙やグルメ紙を楽しむ乗りでアーキテクチャーを楽しむ人がいるということ。
こうしたアーキテクチャーを楽しむ人、そしてそれを対象としたメディア、更にそれを見るデザイナーというこの三角関係は昨今の建築家の創造のメカニズムの一端を担っているなと感じているのです。それはもう少しかっこよくぶった切ると、文学でもアートでも音楽でもそうであるように、シリアスとポップの分離が建築でもおこることの予兆なのです(そうじゃや無いかもしれないけれど)。でも伊東さんあたりから、確実にポップアーキテクチャの匂いはしますよね。それで僕はこの建築における遅ればせのポップの到来を告知したのが某雑誌『a』という風に区切ってみることができるのではないかと感じているのです。
さてそれでは雑誌『a』をどう分析するのかですが、一つは言説分析です。それは、建築家の建築論を分析して時代ごとに何が重要テーマかを抽出してカテゴリ分類することで時代性を明確にするというような分析です。それを『a』にあてはめ言説分析を行います。次『a』に出ている建物はたいてい専門誌にもでておりまして、『a』と専門誌の言説、写真の双方を比較するということも面白いと思います。少し自分のもので試してみると、それぞれが主張している部分が異なっていることが分かります。そこにポップへの分岐点があります。『a』は当然ポピュラリティとガップリ四つです。そしてデザイナは玄人受けを狙います。しかし、ポピュラリティの枠組みがデザイナを引きずり込むことも多々あるのです。その現象がこの分析から得られないかと期待しているのです。
最初に楽にと言った割りには多量に書いてしまった。すいません。
ということで次は木島さんよろしく繋げてください。
コメントたくさんください。スタッフのみんなの意見大歓迎。
コメント
牛
雑誌『a』はaという名前の雑誌ではありません。一番よく目に付くと言う意味でaと記した。
さて建築芸能界現象を見ているといたたまれない学生がいるのは当然だろうし逆に観客的に楽しんでいたりしたり、様々だろうね?
ただ建築を建築の論理だけではなく、一般の人々に向かって発信しはじめた責任はその昔の何人かの建築家にあると思う。
その意味で筆頭は、先ず建築を政治の材料にしたと言う意味で建築家Tはその功罪を問われてしかるべきだろうし、ジャーナリズムなくして建築は無いと言った建築家Sの姿も思い浮かぶ。いずれにしてもこの現象が現在突然変異的に建築界に降って沸いたわけではない。たまさかその形態がひどくメディア的であるというだけに過ぎない。そもそも人のお金で建てる以上「人」と関わらざるを得ないのが建築家であり、日建設計が建築家は芸者だと教える意味は0ではないような気がする。
そしてそうやって建築家と「人」との間に社会的にできあがった関係がその時代の建築を取り巻くエピステーメーを形成せざるを得ないし、そこから逃れることは難しい。あえてそこから果敢に無茶区茶な突破をはかるFのような人もいるが、それは彼にエピステーメーを捻じ曲げる力量があるからである。
僕等は常にこのエピステーメーのちょっと先を予言しながら、遅れてやってくるそれを見ては「ああ思ったとおりだ」とか「ちょっとずれた」とか言ってそのゲームを楽しんでいるのだと思う。そしてそのゲームの参加資格の最低限の条件はやはりそのエピステーメーで使われるヴォキャヴラリーで会話できることだという風に思うがいかがなものか?
投稿者: ushi | 2005年11月12日 07:44
ホームページ更新おめでとうございます。事務所でなかなかできない建築話の機会が得られてとても良いと思います。
その雑誌「a」分析の企画はとても面白そうです。ところで私の知っている「a」という雑誌ですが、「A」とは違うのでしょうか?まずそこが知りたいです。小文字と大文字の違いだけでしょうか??
さて、建築がエンターテイメント化しているのは頷けます。確かに最近やたらと雑誌では「建築特集」していて、少々飽きてきましたが。特にいわゆる「お洒落な」雑誌での特集が目につきます。
ファッションと建築、アートと建築、グルメと建築、リゾートと建築。。。etc.どうなってるのでしょうか。なんだか建築ってすごい。ある種雑誌界のカリスマ?という気さえ起こってきます。
学生時代に、その表面というか格好で建築を見る、語るスタイルに疑問を感じて、グレそうになった時があるのですが(笑)、そういう切り取り方で建築を見ていく方が、学生には受けているという現実もあるわけで、なんだかそういう流れにいたたまれない思いもありました。そこで、おかしな論文書いてしまったんですけど。
(内容は、建築分野以外の人たちが語る「空間」という言葉を見つけよう!、というものです。なんだかとても単純な内容ですが、結果、考えが甘過ぎました。)
言葉って怖いです。
建築家の言葉が雑誌に載る→読み手がその言葉を受け取る→同時にそれに関係する建物を記憶する→その言葉がその人の建築という辞書の中に付け加えられる→似たような場面でその言葉が復活する機会を得る→その言葉は使われる位置を確立される
そういうところがあると思います。もちろん建築に限りませんが。
うかつにいろいろ言えなくなってきたりしてきて、どんどん建築を語るときに深くなっていく。。。
もう考えだしたら止まらない問題です。最初にしては楽になるどころか、混乱してしまいました。意見には程遠くなりました。勉強します。
言葉と建築、切っても切れません。
投稿者: aru | 2005年11月12日 00:36
坂牛
コメントありがとうございます。トウキョウサイコーというぐらいですから東京の方と思われますが、面白い企画をされているようで。東京のどこが面白いかじっくりご教示くださればありがたい。
「メディア受けする建築」はきっとあるでしょうね。例えば自分がテレビのプロデューサーにでもなったと考えてテレビの企画でも作ればあれは使いたいという建築はあると思いませんか?
でもその時の判断基準は企画ですよね。だから一概にメディア受けするというものが存在するとは思い難い。
さて次。「そもそも言葉が必要か?」これはそう問うことがナンセンスで。「言葉はそう問う以前に建築デザインを規定しているもの」と考えざるを得ないと思っています。
そうだからこそあなたが言うように、それを先ず認識した上で、そこから僕たちは解放されるかという風に考えていかなければならないでしょうね。
「最初に」の中に書いた現在監訳中の本(エィドリアン・フォーティー『言葉と建築ー語彙体系としてのモダニズム』鹿島出版会)の訳者後書きにそんな言葉への思いを書いています。ちょっと高い本ですが、興味がありましたら是非ご一読ください。
私の研究と言ってもつらつらと思っていることで何か気になることがあればご意見ください。いろんな意見が聞きたいところです。
投稿者: ushi | 2005年11月11日 09:20
先日、学祭において毎年、学部の4年が中心になって企画している、「トウキョウサイコー」という展示企画に来春はどのような企画を行うかといった話をしてました。そのなかで、「メディア」というのをキーワードに、そのメディアと建築、および都市とが絡みあうところで何がおきているのか分析するような企画をいくつかしてみようかといったことになっています。
とはいえまだ各企画の内容はぜんぜん具体化していないのですが、、
メディア受けする建築とそうでない建築というのがあってその違いは何なんだろうとか、そもそも建築に言葉は必要なのか?メディアの存在が前提にあるからそうなってしまっているのではないか?そしてその言葉が束縛条件になったりしているのではないか?とかそういったことをつらつら考えてはいますが、まだあまりまとまっていません。
とりあえず、坂牛さんの研究テーマとすこし絡み合うなぁとおもって投稿してみました。
投稿者: ci | 2005年11月10日 18:36