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2007年05月25日

第五講お題

本日は建築(土木を含めた構築物)のサイズが及ぼす美的効果についてその歴史的変遷をご紹介した。私の専門ではない領域もあり耳学問の延長部分もあるがご容赦願いたい。
ところで大きいというものは確かに崇高という美的概念によって説明されるような効果はあるもののこのご時世人工物にそうした概念を当てはめてデザインしようなどというのはアナクロの謗りを免れない。しかし一方、大きいということは余剰(redundancy)という概念も含意する。それは今日の講義には出てこなかったが、建築においても余剰空間が建築のflexibilityを高めるなど、美的効果とは別の極めて機能的な見地から評価する人もいる。
そこで大きいことを評価し、現代において大きいに価値を与えてみよう。しかしそれはそもそも見当ハズレであると考える人はそう主張し、その理由を記し、むしろその対極である小さいを評価してくれも構わない。もちろんどのような領域についてでも結構である。

2007年05月18日

第四講お題

さて今日から話は形式になる。形式とは形状と大きさから成立し、一回めの今日は形状の話である。これを「箱と袋」という対義語に言い換え説明した。そしてそこには二つの意味が込められており、一つは純粋に形状として「水平・垂直線⇔斜め線・曲線」という意味。もう一つは設計者にとって『アプリオリな形⇔アポステリオリな形」という意味である。もちろんアプリオリなものが必ずしも水平垂直とは限らないので二つの対義語は合同とは言えないが、建築でしかもモダニズムを対象にするとアプリオリなものは箱になることが多いので二つの意味をかぶせて説明した。
次にこの二つの意味の後者について少し考えてみたい。授業ではその部分をコルビュジェとロースの話で終わらせたが、それを発展的に解説してみよう。形をアプリオリに生み出すというのは建築の一つの理想形を模索する中から天啓の如く舞い降りてくるひらめきを形にするということである。こうした造形は歴史的に見ればプラトン的イデアの形象化である。プラトニズムはルネサンスのネオプラトニズムにおいては理想と想念という二つの意味になったとパノフスキーは述べている。こうしたイデア論がモダニズムに引き継がれるわけで、モダニズムの最も箱建築家であったミースはプラトニストと形容されることが多い。一方袋建築家はこの対極であり、イデアではなく彼らが模索するのはハビトゥス(習慣)なのである。天から降ってきたものではなく、地上にある潜在的な何かを顕在化させる建築家を袋的建築家ということができよう。
さて現代的感覚からするとこのプラトニスティックな思考というものは流行らない。あくまで人ありきという考え方が建築に限らず現代的な倫理であろう。しかし本当か?と少し疑ってみよう。物事には常に理想というものがあるはずである。理想なきところに向上はない。その意味で一概にプラトニズムを否定するわけにもいくまい。
前置きが長くなったが、今日のお題である。自らの問題意識の中で箱的(プラトニズム的)な思考と袋的思考をどのように調停しているか?調停しないか?あるいはその片方に肩入れするか?例を挙げて述べていただきたい。

今日はじめて来た学生もいるので単位習得の条件を再確認する。
①講義出席、およびこのコメントの書き込みを7回以上行なうこと。
②最後に建築見学(各自見に行くことになると思うが)を行い3000字程度のレポートを提出すること。
またこの書き込みは水曜日中に行なうこと。遅れたものは2分の1カウントにするので注意せよ。

2007年05月11日

第三講お題

本日の講義はモダニズムの技術が建築を二つの対極的方向へ導いたことを説明した。それらはスケルトン化でありブラックボックス化である。そしてスケルトン化は必然的に構造や設備を露にする。その露にされることを含めてテクトニックという概念で21世紀の建築を語るケネスフランプトンの『テクトニックカルチャー』の論旨を概説した。更に私の考える未来の材料論からもテクトニック、スケルトンの概念が有力という価値付与を行なった。
そこで今日のお題である。スケルトンという概念を少し拡大解釈してみよう。建築に限らず、身の回りのモノ、コト(建築、プロダクト、音楽、文学、教育、経済その他)がスケルトン化(その構成が分かりやすくなること)することに現代的価値があるだろうか?スケルトンという言葉をいかように解釈(誤解)していただいても構わない。自由な想像力で自分の分野に引き込んでいただきスケルトン化による現代的価値を提示して欲しい。