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第四講お題

さて今日から話は形式になる。形式とは形状と大きさから成立し、一回めの今日は形状の話である。これを「箱と袋」という対義語に言い換え説明した。そしてそこには二つの意味が込められており、一つは純粋に形状として「水平・垂直線⇔斜め線・曲線」という意味。もう一つは設計者にとって『アプリオリな形⇔アポステリオリな形」という意味である。もちろんアプリオリなものが必ずしも水平垂直とは限らないので二つの対義語は合同とは言えないが、建築でしかもモダニズムを対象にするとアプリオリなものは箱になることが多いので二つの意味をかぶせて説明した。
次にこの二つの意味の後者について少し考えてみたい。授業ではその部分をコルビュジェとロースの話で終わらせたが、それを発展的に解説してみよう。形をアプリオリに生み出すというのは建築の一つの理想形を模索する中から天啓の如く舞い降りてくるひらめきを形にするということである。こうした造形は歴史的に見ればプラトン的イデアの形象化である。プラトニズムはルネサンスのネオプラトニズムにおいては理想と想念という二つの意味になったとパノフスキーは述べている。こうしたイデア論がモダニズムに引き継がれるわけで、モダニズムの最も箱建築家であったミースはプラトニストと形容されることが多い。一方袋建築家はこの対極であり、イデアではなく彼らが模索するのはハビトゥス(習慣)なのである。天から降ってきたものではなく、地上にある潜在的な何かを顕在化させる建築家を袋的建築家ということができよう。
さて現代的感覚からするとこのプラトニスティックな思考というものは流行らない。あくまで人ありきという考え方が建築に限らず現代的な倫理であろう。しかし本当か?と少し疑ってみよう。物事には常に理想というものがあるはずである。理想なきところに向上はない。その意味で一概にプラトニズムを否定するわけにもいくまい。
前置きが長くなったが、今日のお題である。自らの問題意識の中で箱的(プラトニズム的)な思考と袋的思考をどのように調停しているか?調停しないか?あるいはその片方に肩入れするか?例を挙げて述べていただきたい。

今日はじめて来た学生もいるので単位習得の条件を再確認する。
①講義出席、およびこのコメントの書き込みを7回以上行なうこと。
②最後に建築見学(各自見に行くことになると思うが)を行い3000字程度のレポートを提出すること。
またこの書き込みは水曜日中に行なうこと。遅れたものは2分の1カウントにするので注意せよ。

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