Diane Arbus "Identical twins, Roselle, N.J.1967"
An Aperture Monograph
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建築に限ったことではないのだが、表現行為とは、およそ、その全体性を構築することから始まる。文章を書くのだって、絵を描くのだって、全体の構成なり構図なりがあって、それを決めてこれからやることの全体観をつかむのが最初である。
建築などその最たるものでその全体の輪郭線を決定するのに建築の歴史が始まって以来、様々な手法が編み出されてきた。その多くは比例理論というものであり、そしてその大半は人体の大きさを基本にし、数学的に比例関係を作り上げるものであった。さてしかし、この全体性に異を唱えた人がいた。原広司である。その透徹した論理で建築を常に牽引してきた氏の30年近く前の著作『建築に何が可能か』の中で氏は全体から部分へ向かう建築の作り方に抗して、部分から全体へ向かう作り方を提唱する。
その時、彼の考えをサポートしていたのはこともあろうにコルビュジェであった。もちろんモダニズム建築と言うのはそれまでの様式建築のもっていた比例理論を廃し、「Form follows function」をそのバックボーンにおいたのだから分からないではない。しかしコルはモダニストの中では数少ない比例理論の継承者であった。言うまでも無く、『モデュロール』が彼の比例理論の集大成である。科学的な近代人を目指すコルビュジェにとって全体は科学的に決まらなければならなかった。しかし、彼は一方でアンビバレントに部分部分を別個に作り上げる、部分建築の作り方としての「近代建築の5つの教え」をも開発したのである。
さて、かく言う自分にとっても建築部分論は魅力的である。それは表現形式の中でも建築が持つ特性に起因する。それは建築の内外性である。内外性とは(僕の造語だが)、建築は彫刻と違い、外側と内側があるということだ。そして、この二重性が部分を強く浮上させる。
全体性は確かに、外側からは見渡せるものだが、内側からは認識しづらい。そして内側に入ると、部分が五感を刺激する一方、全体観は把握されにくい。建築は人との間にこうした関係を結ぶ宿命を持っているのである。つまり、部分は建築体験の半分を担う表現の強度を内在させているのである。