xxvi ヴェルフリン(守屋謙二 訳)『美術史の基礎概念』、岩波書店、1936
図7
フランチェスコ・ボロミーニ サンタンドレア・デッレ・フラッテ ローマ 1665
xxvii J=L・ナンシー(西谷修・安原伸一郎 訳)『無為の共同体』、以文社、2001
xxviii ジャン=リュック・ナンシー(西谷修 編訳)『侵入者』以文社、2000、p.,64
xxix op. cit. , J=L・ナンシー(西谷修・安原伸一郎 訳)『無為の共同体』、以文社、2001、p.64
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6. 病理を分有する都市
・病理の建築
バロック絵画の特質を肯定的にルネサンスとの対比によって浮き彫りにしたのはハインリヒ・ヴェルフリンであるがそのときのバロック性は絵画的、深奥、非構築的、単一的統一性、不明瞭性という5つの特長にまとめられたxxvi。
ヴェルフリンの弟子ギーディオンはこれらの絵画的特質を参考にしながら建築的特質として、壁体のうねりと相互慣入を抽出したのである(図7)。そしてそれらの性質が既述のとおりモダニズム的多視点的視覚において結実したと捉えるのである。
それゆえにヴィドラーはギーディオンを引きながらモスの建築の相互貫入性をその完成形を持つモダニズムの視点から捉え、逆にバロックへ遡る。しかしそうしたモダニズム経由のバロックでは把握しきれないモス(都市)の病理に突き当たり、むしろ、
その病理故にモスはバロックを超えた何かに進む可能性を示唆するのである。しかしバロックとはその語源がポルトガル語のBARROCO=ゆがんだ真珠であったことを思えばその成立の端緒からある種の病理を内包していたともいえる。
近代都市が追いやったものを包含するフーコーの視線は病理もそのひとつに含んでいるがフーコーに触発されたソジャ、そしてソジャの都市認識に重なりを持つナンシーのいずれの視線にもある種の病理は内在していると思われる。
・病理との共同
ナンシーの共同哲学の中に分有という概念がある。人間の死の体験の分析から始まるこの考えは次のようなものである。他人の死は経験できても自分の死は体験できない。しかしそして他人の死の経験は去るものと送るもの双方の限界をこの別れという経験を通じて双方で分かち合うことで成立する。
ここに人間は根源的に分かち合う何かを所有する(=分有)存在であると考える。そしてこの分有が人間の共同の基礎にあるとナンシーは考えるxxvii。そしてそれぞれの場面における他者との
接触を通じて主体の輪郭は形作られるとするxxviii。そこに彼の《と共にある》存在としての主体が措定される。
このようにナンシーの共同は人と人との関係性を基礎とする。「しかし人は建築とも共同するのではないだろうか」と考えてみたくなるのは建築家だからだろうか。もちろん「建築という共同体」はナンシーの言う「無為の共同体」とは決定的に異なる。
「無為の共同体」の基礎にあるのは「命」と「死」であり建築の根底にそれらは無い。そして「生きられた家」と呼ばれるような先祖代々の100年の計の家に住む人々にとっての家族のような家においてもそれを「生きられた」と呼ぶことと人の「命」との間には埋めがたい溝がある。
しかしそれでも「建築の共同体」に惹かれるのは決して建築を通してコミュニテイを作ろうなどという夢想を抱いているからではない。むしろそのまったく逆の意味においてである。
それはナンシーの次のような言葉に触発されるからである。
ある意味では共同体とは抵抗そのものである。つまり内在に対する抵抗だ。それゆえ共同体とは超越性である。だが「聖なる」意義をもはやもたない「超越性」はまさしく内在への(全員の合一への、あるいは一人ないし幾人かの排他的情熱への、
要するに主体性のあらゆる形態、そのいっさいの暴力への)抵抗以外の何ものも意味はしないxxix。
ナンシーの想定する共同体とは死を原理とする人間の根源的なあり方でありそれは共同体という言葉で表現されつつもその実とてつもなく個人的問題として全体性を跳ね除ける人間のあり方を含意している。そして「生きられた家」というのもその存在の仕方は個人にとってのものであり、
それが基礎となって生まれる「建築の共同体」というのもむしろ人間と建築の固有の関係を基礎とするものであり、共同的全体性と相反する概念である。そして「建築の共同体」は必然的に自らの周囲の環境としての都市へ同様な視線を投げかけ、私の輪郭はそうした周囲との相互連関の蓄積の上に形成されざるを得ない。
我々は好むと好まざるとに関わらずその現実の坩堝の中でしか生きられないところに来ている。そしてその坩堝の中では混在郷を歓迎し、an-Otherを召喚するポストモダンの視線がゲーリーやモスの建築を必然的に生み出しているのである。もちろんここで、できたan-Otherを受け取ることとan-Otherを作ることは一緒くたにしてはいけないのかもしれない。
両者の視点には隔たりがある。出来たものと作るもの。この二つには埋め尽くせない距離がある。できるものに表出される無為は作るものではない。しかし建築家の洞察は時として都市に
胎動する「できつつあるもの」のを表面化してくれることもある。彼らの建築はまれに起こるそうした部類のできごとである。その意味で彼等の建築に表出するものもまた都市であり、人びと
はそれをもひとつの共同の中に取り込んでいかざるを得ないのである。
初出:『遠くの都市』 青弓社 2007
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