都市と建築 ― 建築に表出する病理の行方

viii ミシェル・フーコー、(工藤晋 訳)「他者の場所―混在郷について」、(講演1967)、蓮見重彦、他監修『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-1988 倫理/道徳/啓蒙』筑摩書房、2002

ix op. cit., エドワード・W.ソジャ『第三空間―ポストモダンの空間論的転回』、p.207

x ibid., p.281

xi Jencks, C., Heteropolis: Los Angeles : The Riots and the Strange Beauty of Hetero-Architecture Academy Edition, 1993

xii チャールズ・ジェンクス(竹山実 訳)『ポストモダニズムの建築言語』、a+u1978年10月臨時増刊

xiii ロバート・ヴェンチューリ(伊藤公文 訳)『ラスベガス』、1978、鹿島出版会





















fig.4
図1
フランク・O・ゲーリー 自邸 ロサンゼルス 1978

xiv 1999年度冬学期に東京大学文学部で行った講義

xv カント(宇都宮芳明 訳)『判断力批判』、上、以文社、1994、p.,137

xvi このあたりの解説はエイドリアン・フォーティー(坂牛卓、辺見浩久 監訳)『言葉と建築』、鹿島出版会、2006.空間の章を参照

xvii 2004年度夏学期に東京大学文学において行った建築意匠論『建築のモノサシ』

3. フーコーとジェンクス
ソジャの an-Other という概念は自ら語っているとおりミッシェル・フーコーによるところが大きい。フーコーは1967年に「他者の場所--混在郷について」なる講演viiiを行っている。ソジャはこの講演を支離滅裂な議論としながらも、ここから多くを受け取っているix 。簡単にフーコーの論理を跡付けてみよう。 先ずフーコーは歴史的な空間の変遷を中世、近世、現代と区分し、それぞれの特性を序列(聖なる場所、世俗的な場所、保護された場所、無防備に開かれた場所、都市と田舎、等)、延長(ガリレオによって原理化された、無限定に開かれた場所における運動)、関係(機能配列の要素間関係)とする。さらに現代のこの関係性の都市を詳細に眺めるならば、指定を裏切る場所があるとして次のように述べる。
 
他のすべての指定用地と関係しつつもそれらを裏切るそうした空間は、大きく二つのタイプに分けられる。第一に非在郷・理想郷(ユートピア)である。それは実際の場所を持たない指定用地である。・・・〔中略〕・・・ところでそれと同様に、恐らくあらゆる文化や文明の内部には、社会組織自体の中にデザインされた、現実に存在する場所でありながら一種の反=指定用地であるような場所がある。それは現実化した非在郷ともいうべきものであって、そこではその文化の内部にある他のすべての指定用地が表象されると同時に意義を申し立てられ、逆転させられる。 そこは、具体的に位置を限定されているのにもかかわらず、すべての場所の外部にある。この場所は、それが映し出し物語るあらゆる指定用地とは絶対に別のものであり、それゆえ私はそれを非在郷と対比させて混在郷(エテロトピ)と呼んでみたい 。
 現代都市が近代都市計画概念で機能的な整備をされつつもそれと並行してそこでは常に別の何かが生まれているという現実をフーコーはつかまえ、そうした別の何かに潜む混在郷の存在を指摘するのである。フーコーは続けてこの混在郷の原理として弱者、死、異空間の並置、時間、開放等と言う都市の病理、歴史、タブーと言ったものをあげる。 フーコーの指摘した近代都市の闇の部分に現れるそうした混在郷にソジャは注目し、そこに潜むan-Othernessを二項対立のeither/orでは脱落する危険があるものとして掬い上げるべくboth/and から生まれる第三項を措定したのである。さてこうした哲学、社会学からの都市把握とは一線を画し、建築の側からロサンゼルスの混在=ヘテロな性質に注目していた人物がいる。ソジャ同様UCLAで教鞭をとっていたチャールズ・ジェンクスである。彼は1993年『ヘテロポリス、ロサンゼルスーヘテロ建築の混乱と奇妙な美』 を著した。 彼はここでロサンゼルスの人種、ライフスタイル、言語、植生、動物、などの異種性を分析しつつ、そこで発生する建築を議論する。

・第三項を呼び込むこと
 ジェンクスは『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978年)xiiでミースの建築を一義的であり解釈の可能性が狭隘であることを非難した。そしてミーシアンな建築に埋め尽くされた近代都市の終焉を宣言し、返す刀で多義的な建築、意味の豊穣な建築を称揚した。ジェンクスの論はヴェンチューリの『ラスベガス』(1972年)xiiiとともに歴史主義を主流にしたポストモダニズム建築の流れを加速した。そうしたジェンクスの基本姿勢は、ヘテロ(異種=多様)な都市・建築へ連続するのだが、そこに生じた微妙な差異にも見逃せない重要性がある。 30年前の結論は「ラディカルな折衷主義」であり意味の多用性を招来するための様式の多様性であった。しかし15年後の著書はヘテロアーキテクチャを単なる多様性を超えて、原理主義と多文化主義の袋小路を超えるものとして位置づけている。それはソジャの説くAn-Other;二項対立によって物事を切り捨てず、むしろさらに他なる何かを組み込むという姿勢へ繋がる。そしてそれは折衷的に多元性を標榜することではなく、モダニズムかポストモダニズムかと問うことでもなく、それらを包含するような三つ目を想定する態度である。

4. an-Otherの建築
・ゲーリー自邸
 1985年僕はUCLAのスタジオの仲間とフランク・O・ゲーリーの自邸を訪れた(図1)。当時のゲーリーは博物館、美術館、数々の住宅を設計してはいたが現在のようなスター的な地位を築きあげた建築家ではなかった。ロサンゼルスにはあのシーランチの設計者チャールズ・ムーアが君臨していた。私自身、このグレイ派の首領ムーアのインクルーシブな設計手法を一目見たくロサンゼルスまでやってきたのである。しかしムーアもさることながらゲーリーの建築はムーアの主張を徹底したものであることに気づかされた。当時のゲーリーは、僕の印象で言えば、ムーア以上のインクルーシブネスだった。 つまりその場にあるものを何でも混入させてしまうような建築だった。自邸で一躍有名になった工事現場のフェンスネットや単管足場、スタッコ、木材、カラフルな色彩、ロサンゼルス的なものはとにかく取り入れられていた。それが証拠に、日本の雑誌を見て知っていた彼の異様な形と質感は現地に行くとさほど周囲から浮き上がっていない。むしろ溶け込んでいる。自邸を探すのに苦労したのを今でも覚えている。さらに言えば、その内部空間における爽やかなロサンゼルスの光が射し込むあの有名なキッチン上部のトップライトにしてもそうしたトップライトは これもロサンゼルスのちょっと気取った家には何処にでもあるようなものなのである。
 ゲーリー自邸は既存建屋の増改築である。つまり半分は既存、一部壊してトップライトが付け加わったり、既存の周囲に工事現場のネットが手すりがわりに回されたり、そして庭の周囲に工業材料のトタン板が張り巡らされている。それらは、既存か新築かという二項対立的な手法では作りえない、既存の上に覆い被せる方法なのである。およそその明確な線引きは無く、部分、部分に付加されているのである。それは今から思えば正にan-Otherの思考の具現化と思えるものであった。つまりソジャの提唱するan-Other、フーコーの言う混在郷がここに見え隠れしているのである。

・either/orの思考
 数年前僕はある大学で「建築の質料と形式」という講義を行ったことがあるxiv。もちろんそれはアリストテレスの質料因・形相因を念頭に置いていた。アリストテレスがレンガを積み最終的に形を生む建築の姿を見てこの概念に辿り着いたように、質料と形式は建築の最も基本的な要素であり、何をいまさらというところだが、この2つは芸術史的に概観すれば近世において圧倒的に形式重視に傾いたのである。カントが建築で重要なのは形式でありその色は二の次であるとしたxvのを初めとして、近世美学は形式重視の美観を定めそれは確実に建築のモダニズムに継承された。 さらにイマヌエル・カントが人間認識のアプリオリな基礎を空間と時間に定めたことに端を発し、アドルフ・フォン・ヒルデブラントを初めとする視覚と空間の発見が相乗的に結合し空間は形式の基礎となりその重要性に拍車がかかったxvi。こうした形式重視の末に、忘れられた質料がどう現れるか、あるいはそうした態度への反省はいかなる形で発露するであろうかというのが講義のテーマであった。もちろんここで私は質料と形式の二項対立図式において形式を選択していたモダニズムに反して質料を重視した建築を提唱する気など毛頭無かった。むしろこの2つがどのような両立を生み出していくのかその可能性を考えていたのである。 さらにその後この講義を発展させ、建築のモノサシという講義を作成したxvii。それは建築を思考する10の枠組みを考えそれぞれを「甘い辛い」のような対義語で表した。そしてモダニズム初期からの建築の流れがその指標上のどのあたりを推移しているかを分析した上で、今後の建築は十の指標のそれぞれにおいてそのどこにあるのだろうかと考えた。そのときのポイントは「甘い辛い」のどちらかではなくその中庸つまりはソジャの言葉を借りれば、either/or ではなく、both/and のポジションつまりは「甘辛い」の探求を行っていた。そんなboth/and のひとつの事例がゲーリーの自邸であったことは既述の通りである。


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