6、景観意識の変容
上で見たように脱パラドックス化は景観(建築)を設計する上での現在の一つの可能性なのである。そして性急にまとめるならばそれは設計する視点の中にいかに多様な参照点を発見しうるかということに関係するのである。そこで、モダニズム以降の建築概念を把握しながら、建築の構成を再検討し、そうした新たな参照点の可能性を検討してみたい。
アクソメ的視点によって支えられたモダニズム以降の建築構成の支配的概念を瞥見するならその中心に「空間」が主要な座を占めた一時期があったことは疑いの余地が無い。しかし現象学者たちがその「空間」に疑問を呈し、「場所」の概念を強く打ち出し、それとともにそこに存在する「物」にも注意が払われたこともまた歴史の教えるところである12 。しかし現在「物」とその間に発生する「空間」とは等価な位置づけとなり、そしてその「空間」は内外の等価性に立脚していると思われる。その理由は二つあり一つは概念的に建築が開放へ向かっていること。二つ目は実体的にガラス工法の発達等によって建築が透明化向かっているからである。そこでこれを受けて建築の構成要素を「物」とその「間」と考えてみると、この内外等価な建築を捉えやすい。この場合「物」とは建築の構成要素である床壁天井、室内の家具、カーテン等に加え、外部の植栽から塀、隣地にある隣接建物まで、およそ形あるものは全て含んでいる。こうして「物」の範囲を一般の建築構成要素よりやや拡張して考えてみると、建築設計の意識における内部と外部の隔絶は減少し、外部の「物」の「間」は内部の「物」の「間」と等価になっていく。そしてその思考の延長は必然的に街的な規模へ展開される(図5)。更に建築の開放性、透明性といういくつかの要因は建築の内部が景観の一部に参画する状況を容易に可能たらしめる(図6)。つまり外部から見れば内部が景観に参画しているし、内部から見れば外部が内部空間に参画している。この相互依存性は現代建築状況において大きな特徴の一つなのである。
そしてこうした内外の境界の消失は視覚的のみならず実体的にも現実化している。すなわち公共的な施設はもとより、私的な施設においてもこうした内なる空間が公共に開かれている場合が多く見られる(公開空地、開かれた学校などはそうした例と言える)。そうした状況において、景観を設計上の概念として考えるなら、単に「見られるもの」としてだけではなく、「見る場」としての位置づけを包含したものと捉え直してもよいであろう。つまり、景観規制が単純に建物の外観をコントロールするだけではなく、内部空間を含めた相互の浸透性に基づく風景のあり方を問うものであると考えてみることも可能であろう。具体的に言えば、私的所有地からの景観を誘導対象とするのである。例えば公共性が担保された私的所有地(内外を問わず)に良好な視点場を設けるような設計は景観形成上優良な行為と認め得るということである。そしてこうした設計態度は景観設計における自己の行為の参照点を建物の外観に求めるだけでなく内部からの景観にも求めるものとなり、参照点の増加を意味するもので、更なる「脱パラドックス化」を図る要素となっていくのである。
7、柔らかな制御
パース的視点で捉えられた景観事例で始まったこの論考はアクソメ的視点で埋められた現代都市へ目を向けさせ、その視点が生む「部分」の関係性、関係を作る為の言及システムへと展開した。そしてこの言及が陥りやすいパラドックス化を回避するためには自己の外部に参照点を見つけることを提示した。そして、その外部の一例としてここでは内外相互浸透性に言及した。しかし、外部とは多くの可能性をもつものであり、複雑にして雑多なのである。景観のようなものに正解はなく生物的であり、時間経過は様々に状況を変貌させる。それゆえそうした中での景観誘導は一義的なものではあり得ず、誤解を恐れず言えばそれは、その場その場その時々に対処療法的に見えながら、全体を包括的に柔らかく統御するものでなければならないであろう。景観法は未だ制定されたばかりで実効力をあまり持っていない。今後のルール作りに多く委ねられている。そこでの議論の中でこうした多様と時間を見据えた柔らかな統御システムが検討されることを願いたい。そして法の体系自体は既述の通り住民、NPO参加に立脚しておりそうした可能性を十分持っているのである。それに対して、建築家はその一員として生成する都市の新たな局面に最初に気付きそれを周知させ、それによってその時代、その場所の法の更新へ参画する役割を担っているのである。社会は常に統制と逸脱(現在の刻印)の弁証法の中で変容しながら生成していくのであり、そうした生成が止まることは許されない。そのためにも建築家は法的場の設定の中では掬いきれない側面に常に目を向けなければいけない。
冒頭掲げたメアリーの問い「ゴチャマゼ」と「片付き」の定義は常に更新されなければならないはずである。
初出:『10+1』vol.43 INAX出版,2006
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