4分33秒の射程
前回のゼミ輪読本だった佐々木敦の『テクノイズ・マテリアリズム』につながる同じ著者による『「4分33秒」論―「音楽」とは何か』Pヴァイン2014を熊本への往復で読んでみた。その中で著者はこの曲をこう解説する「・・聞こえていたけれども聴いてはいなかった「音」を聴くように仕向けられる。そして送り手の側は受け手を「聴取」に誘導している・・」これは言い換えると、ピアニストがステージに出てきて4分33秒間何も弾かずに譜面をめくる音だけを残して帰っていくという一連の行為の中で、聴く(listen)側は演奏を予期しながらなにも聴(listen)えてこないことに苛立ちながらも耳をこらすことで、普段は聞(hear)きながら聴(listen)いていなかった譜めくりの音や聴衆の咳払いを聴く(listen)ようになるということである。著者はこの聞く(hear)から聴く(listen)への変化によって今まで聴いていなかったものを受け取ることを聴取と呼ぶ。
つまり4分33秒の無音が示したことは敷衍して考えるなら、Nothingをある時間と場所の中に投じることでそこにすでにあった意識されていない何かを顕在化させたということである。
ケージが聴覚でおこなったことを視覚の上で思考実験するなら、ラウシェンバーグの「ホワイトペインティング」などを想起しそうだがここにはケージの意図は無い。そこで例えば、建築に置き換えて考えてみるならケージの行為は、真っ白な図面を描いてそれを施行者が現場で見ながら何も作らないということになる。ケージの4分33秒には多くのCDがあるのだからこの何も作らない施行者をDVDすれば4分33秒の建築を商品化できる。
これは4分33秒をべたに建築に置き換えたものだが、そうではなく先ほどの解釈。すなわち「・・・聞(hear)こえていたけれど聴(listen)いてはいなかった「音」を聴くように仕向ける・・・」を視覚に置き換えるなら「・・・見(see)えていたけれど見(look)てはいなかったものを見(look)るように仕向ける・・・」ということになろう。
つまり何が言いたいか?
ある時間と空間の中にある「空白」(nothing)の建築を投じることでその場所にすでにあった見(see)えてはいたけれども見(look)てはいなかったものを見る(look)ように仕向けるような建築が無いのかという問いである。既存の建築的ヴォキャブラリーで言えば、潜在化しているコンテクストを顕在化する様な空白建築の可能性ということになる。そんな建築があるのだろうかと考えていたら昼に見た西澤、佐藤の二つの駅広が頭をよぎる。あれらはまさに最小限の構築物をあの場に投じることであそこにあったものを顕在化しているのではなかろうか?
4分33秒が問いかけるものの射程は長くそして有効であることに驚く。。