空間概念の断絶と縫合
昼間理科大二部の編入試験で大学へ。午後帰宅して多木浩二『視線とテクスト―多木浩二遺稿集』青土社2013の膨大なテクストの中から、雑誌『デザイン』に収録されていた篠原論「篠原一男についての覚え書き 「花山の家」まで」を読んでみた。1969年の文章であるから40年以上も前のものである。そこで多木は空間概念を二分し、一つを人間の内在的な衝動や直感につながるものもう一つを抽象的な記号論のレベルで扱われるものと言い、言い換えて実存と半人間的な構造とも呼ぶ。其のうえで、篠原はこの二つを接続するのではなく断絶させて前者に焦点を当てていると述べる。
そのあとの文脈からして、この半人間的な構造とはどうも建築にまつわる、資本、生産、消費と言うようものと思われるのだが、この篠原の方向性が磯崎と同調しながらその後の建築を閉塞的にしていったというのが伊東豊雄等の建築内向批判へとつながるのである。おそらく篠原はあまり意識していなかったのだろうが、篠原の断絶は「社会」をも無意識のうちに切り離したものと思われる。今となってはそこが一番の問題となっていると言えよう。しかしそうした現在の建築内向批判は断絶された社会を再評価するあまり、空間のもう一つの概念を無視しているかの様相を呈しているところに難がある。建築の思潮とは(建築に限らないが)いつでも極端である、白が駄目だと黒を目指す。分かりやすいからなのだろうが、物事はそう簡単ではない。現状がすべて悪いと言うことはありえないのである。つまり社会を再評価するのはよしとして衝動や直感につながる空間と言うのも当然重要なものであり、そのことに話が及ばないということはおかしな話なのである。今こそ断絶した概念の縫合が必要なのであろう。