写真分離派宣言とは言うものの
『写真分離派宣言』(青幻舎2012)というタイトルが目に留まった。あれ写真も建築に100年遅れて分離派宣言?と思わず苦笑する。この宣言に名を連ねているのは5人いて全員1963年生まれ。鈴木理策、鷹野隆大、松江泰治、倉石信及、清水穣。写真家3名、批評家2名である。批評家の言葉はおいておき、写真家3名が言いだしっぺ鷹野を中心に二人ずつ対談している内容が面白い。素人の僕が見る限り、鈴木と鷹野は似た者同士、松江はちょっと違う。どう違うかは鈴木、松江の言葉が象徴している。鈴木は写真とは撮り損ねることがあることを前提に撮れたものとどう向き合うかが写真だと言う。被写体と自分の気分を同期させて、他者がつくるきっかけでシャッターを押すと言う。一方松江は100枚撮って一枚を選ぶと言う。つまり鈴木は被写体(他者)任せであり、松江は松江(主体)のイメージを写真にしている。と僕には思える。
さてこんな写真の二つのあり方を読んでいると、なんだか写真は書にけっこう似ていると思えてくる。書も普通は書家の主体的イメージで書いているように見えて、どうも書いている時の空気やら雰囲気のミックスが結果となるように思える。そういう姿は鈴木的である。また一方で100枚書いた中から一枚を選び取るという作業は松江のそれにもよく似ている。結局どちらかではなく両方である。たぶん写真も結局そうなのではないかと実は思う。二人(鈴木と松江)は一見対局に見えるのだが、実は自分のある一面を語っているだけで作業の総体としては両方なのではなかろうか?
ところで分離派宣言といっているのは一体何から分離しているのだろうか?と問いたくなるのだが、どうもそのあたりははっきりしない。デジタルが出てきて写真が変わるという時代の流れの中で何か言いたいということなのだろうが、、、、