「フレームとしての建築」におけるフレームの射程
アン・フリードバーグ(Friedberg, A)著井原敬一郎・宋洋訳『ヴァーチャル・ウィンドウ―アルベルティからマイクロソフトまで』産業図書[2006]2012を現場往復で読み始める。大部の書なので興味のある部分を飛ばし読んだだけだがとても興味深い。
タイトルを読むとコンピューターというウィンドウの向こうにあるヴァーチャルな世界の話だろうと思ってしまう。確かにそれは半分正しいのだが、重要なのはそうした世界はじつはアルベルティの時代から始まり現代まで連続しているというのが著者の言わんとするところである。
アルベルティの「絵画は窓」という謂があるが、それは額縁に囲まれた絵画世界とフレームに囲まれた窓の向こうの世界の共通性を指摘するものである。しかしこれは文字通りの窓の向こうの現実世界を意味していたのではないようである。アルベルティはフレームの向こう側は絵画同様ヴァーチャル(非物質的)な世界だと考えていた節もある。
時代が近代に入ると、ハイデガーは「近代とは世界が像となった時に始まった」と言った。それはハイデガーにとってはデカルトの謂「考えることを通して世界を表彰する主体」が生まれたことにつながっている。そしてハイデガーはここでこの像を見るフレームを哲学的に設定している。ここでは世界が個々の内面のフレームの内に立ち上がっているのだが、それももはやリアルな何かではなくヴァーチャル(非物質的)な世界なのである。
そして現代ではコンピューターのフレームの向こうにヴァーチャル(非物質的)な世界が広がっているのである。つまりアルベルティからマイクロソフトまでという副題の言わんとするところはここである。
僕が「建築はフレームだ」と言っているときのフレームはまさにハイデガーの言う世界を像化したいという観念的なレベルと同程度にお隣さんとお話ししたいというくらい具体的なレベルの双方にまたがるフレームなのである。
いずれにしても、、我々の目はフレームを通さないと世界が見られないように飼いならされてきたのである。世界を見るにはフレームが必要なのである。