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つながらない生活

10年くらい前誰かが言っていた。もはやネットに繋がっていないcpuなどcpuの意味はない。その時はまったくそうだと感じていた。cpuが常時つながっているなんて夢のような時代だったから。
それがどうだ、10年経ったら状況は逆転した。今ではcpuを前にして何かアプリを立ち上げた時はネットから切れるボタンがあるといいと感じている。翻訳作業でスクリーンと睨めっこしていてちょっと休憩などと思ってメール見たりする。変身すべきメールを見てしまうと「ああ見なければよかった」と思いつつ、見た以上早く返信しなければという気になってしまう。ちょっと天気予報を見てしまって雨だと分かった時、ちょっと電車の接続を調べて今日の予定を考えてしまった時、とにかく何か情報が来てしまえばそれに脳ミソは反応せざるを得ない。
ウィリアム・パワーズ(Powers, W.)『つながらない世界』㈱プレジデント社2012はネットにつながることとつながらないことの調和が生活を豊かにすると説明する。まあそれはそうなのだが、面白いのは人類史上でメディアが開発された時にはそれが対話であれ、本であれ、印刷技術であれ、ラジオであれ、人間は情報過多に悩まされ、その都度自らを反省する手段を考えたと言うのである。プラトン、セネカ、グーテンベルク、ハムレット、フランクリン、ソロー、マクルーハン。彼らはいずれも情報と言う雑踏から身を隠す術を身につけた。それなしでは極度の情報過多に身が持たない。
ネットスクリーンを前にした我々は自分と向き合っているようで実は違う。スクリーンの向こうにはつながった世界がありこの雑沓の中で集中を失い、深い思索に到達するまえに、思考は細切れに分断されるのである。
因みに僕のIPHONEは常時繋がってない。ポケットwifiをONにしないと使えない。これが結構手間なのでIPHONEをつなぐのは日に数回ということになる。便利ではないけれど困ることもない。それでいいのだと思いつつ、まあしかし、ポケットwifiなんて持っていること自体、そもそもこんなこと言う資格ないのかもしれないが。

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