完全性とそれをやめること
吉本隆明、石川九楊『書 文字 アジア』筑摩書房2012の中で吉本は良寛の書は他の禅僧と違いとてもあっさりしているという。普通禅僧は厳しい修行で様々な無駄を削ぎ落される故、修業以外の部分が濃厚になる。しかるに良寛は淡白であると言う。
書は書く人の内面が出るものだが良寛はちょっと違うようだと言う。しかし僕はこう思う。書は内面が現れる場合がある一方、書が内面を構築する場合もある。つまり書を書くときにフォームのみに意識を集中し現れたフォームを気にいり、そしてそのフォームに馴染む自分が事後的に生まれてくる場合もあるのではと思う。
もちろん良寛がこのケースであると言う証拠はどこにもない。ただそんな可能性もあるということだ。
おそらく表現というのは書に限らず双方のケースがある。僕と建築との関係もそうである。作ったものから事後的に自分がそこに同調していくことも多々あるのである。
ところで書のフォームとはある完全性を持っている場合が多い。完全性とはフォームを作り上げるアルゴリズムによってほぼ全体が作られていることである。例外が少ないことである。つまり一貫したスタイルがあるということである。
しかし良寛の書は別として、一貫したスタイルを敢えて壊し、アルゴリズムの例外を散りばめる書き方もある。
そんな書のことを思いながら塩崎君のオープンハウスにうかがった京王線の先の方である。100㎡ちょっとの家だが3階建てでヴォリュームが二つに分節されている。この分節がこの建物の構成を決定づけている。二つにスプリットすることで生まれた間の空間が曖昧な階段室となり、そして2階には別世界のような天井の高い空間を生みだした。この小ささで多様な空間性がいいなあと思ってゆっくりと味わった。
ただこの建物は曖昧な中間領域がそれを象徴しているのだが、ある統一を拒否している、書で言えばスタイルの形成がありそうでそれをやめようとしている。照明のテイストが多様だったり、トイレのキューブが広間に入りこんでいたり、いくつかの異質の空間の質があったり、エントランスキューブがとって付けたように見えたり。この手の統一性の拒否は何も塩崎さん独自のことでもない。坂本先生もよくやることである。
しかし重要なのはそのやり方。書でもそうなのだが、全体を支配するアルゴリズムの例外の作り方は例外が例外として表現になるレベルであることが必要である。そうしないとそれはただの荒れ地になってしまう。