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建築家が操作できるのはシニフィアンでしかないのだろうか?

1989年に雑誌『へるめす』で連載された磯崎新と多木浩二の対談が『世紀末の思想と建築』岩波書店2011というタイトルで本になった。まとめて読み返しその昔の磯崎さんの論理を反芻し懐かしくなった。
建築はつまるところ作る論理とできたものが意味を発する論理によって成り立つ。そんな認識の中で万博の絶望を味わいながら意味に寄りかかって建築を創ることの困難を感じはじめた磯崎は作る論理に立ち戻らざるを得なかった。それが「手法」でありそこに多木さんは磯崎の面白さを見出している。
つまり建築家とはシニフィエを気にしようとも結局手を下せるのはシニフィアン。シニフィエを操作したくともそんなものはその時代のコンテクストと見る側の勝手な論理でどうにでもなってしまうと言うことである。バルトではないが作者は文体は作れても意味は作れない。その意味で作者は死んでいる。建築家も形は作れても意味は作れないその意味では建築家は死んでいた。
とは言えシニフィアンに拘泥する時代はとっくの昔に終わったような言われ方をしたりもする。だから建築家という職能は解体されむしろ意味を生みだすコンテクストとよろしくまさに街のコンテクスト作りに奔走する人もいれば、シニフィエの解説に血道を上げる人もいる。それはそれで結構である。建築家などという職能が唯一無二のアイデンティティを保持しうるなどとは思えない。しかしでは再度建築家はシニフィエを操作する力を持てるのだろうか?考えてしまう。僕は建築のシニフィエにこだわり講義をする。でもこれが建築の創作論になるのかどうかは今のところ未だ不明。

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