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アイデンティティはその都度選ぶで大いに結構

アマルティア・セン、大門毅監訳、東郷えりか訳『アイデンティティと暴力』勁草書房(2006)2011でセンは人間のアイデンティティの複数性を主張する。そして複数の自分の中から状況によって論理的にアイデンティティを選択することを奨励する。確かに日本に生まれたから日本人と言うアイデンティティがつきまとうだろうか?親父が仏教だから一生仏教徒となるだろうか?キリスト教と仏教のいいとこどりしたらばそれはおかしいことだろうか?
しかしかといって状況で自分のアイデンティティが変化すると一般にそれは「ぶれた」人と呼ばれ軽蔑の対象となったりもする。しかしそれを差し引いても僕はセンの意見に賛成である。もし例えば宗教的な問題であるならば(こんなことは敬虔な信者ではあり得ないだろうが)二つの宗教が共有する論理を自分の信念とすることもできる。日本人であると同時アジア人であるということでも同様である。メタレベルでの自分のアイデンティティを常に考えておけばいい。
センはインドで生まれアメリカで学びハーバードの教授でノーベル経済学賞の受賞者である。小さくしてヒンドゥ―とイスラムの対立も見て育った。インド人でありアメリカ人でありイスラム教だがそれに固執しない。そんな環境がこうした思想を生みだしたのであろう。
振り返って僕のような平凡な日本人がなぜセンの思想に賛同するかと考えれば、それは極めて単純である。日本的なナショナリズムを全く受け入れられないからである。僕は日本人のナショナリティをもっているがアメリカにいるととてもほっとする。ヨーロッパ人は嫌いに思う時も多々あるがそのきらいさ加減は日本人を嫌いに思うのと同程度である。東工大出身だが愛校心は0。今のところ信大の方が好きである。でももう少し理科大にいるとどうなるか分からない。だからと言って東工大を憎んでいるわけではない。言えばどれも似たようなものである。

愛国心に話を戻せばどうして国家と言う単位に固執するのか、それによって得られるメリットの方がそれによって失うデメリットを超えるとは思えないでいる(少し大げさだが)。そんなことを言うと単なる能天気な理想主義者と言われそうではあるが、そう言う言葉は甘んじて受ける。しかし国家のアイデンティティだけではない。家族、コミュニティ、学校そのすべてにおいて適度な帰属意識はある一方でそれによって他を排することに全く意味を感じない。たまにそんなことを感じて騒ぐのはワールドカップぐらいのものだ。しかしこれだってどこかのチームを応援しないと面白くないからジャパン組に入っているだけ。運動会の紅組白組と大差ない。だから僕はアイデンティティはその都度選ぶで構わない。むしろそうあるべきだ。そうなればこの世から紛争は少しは減る。

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