21世紀になっても日本は江戸のまま
夕方事務所で4月のアルゼンチンでの展覧会の打合せをかみさんと行う。日本の文化の一端と言うことで建築だけではなく書も展示する。そのイメージを模型化。
日本文化をもう一度勉強しようと歴史書として読み始めた『中国化する日本』はいろいろと刺激的で面白い。と言っても未だ半分。話題は維新。
明治維新はやっと日本が科挙、郡県、などの宋システムを導入し、自由主義の世界に突入した時代で西洋化ならぬ中国化した時代だった。それなのに明治後半では自由化、競争化を回避して地位の一貫性が低い江戸社会に内実が戻ってしまった。と言う。
この本を少し置いて別の本を手に取る。あのイザヤ・ベンダサン名で『日本人とユダヤ人』を書いた山本七平が1975年に季刊歴史と文学に連載した「日本型民主主義の構造」。この論文は『なぜ日本は変われないのか』桜舎2011として復刊されている。
そこでは日本の組織とは西洋のそれと異なり正当の前に調和と平等が重んじられる。つまり正しくないことが行われても荒波立ててまでそれを排除はしないのである。言い換えると不良パーツが混じることで動きの悪い機械だからと言って、その不良パーツを取り換えることはしないのである。山本はそうした組織を西洋的な「組織」に対して「家族」と呼ぶ。そして明治維新とは一つの江戸的体制からの脱却として不良品を入れ替えた「組織」を目指したものの調和と平等を脱却できず結局「組織的家族」という表面「組織」内実「家族」で終わったと言う。この山本の指摘は上述「中国化」を狙った明治維新が結局「江戸化」したと言う与那覇の指摘と合同である。
つまり一言で言えば結局20世紀後半の日本って未だ結局江戸だったと言うことである。さてそれでは21世紀の今、日本は江戸から脱却できているのか?と言うとやはりダメである。正当より調和と平等なのである。正しいことより空気なのである。国も役所も大企業もそうである。じゃあ江戸からさっさと脱却したらいいのかと言えば話はそう簡単でもないのだが、少なくとも空気に流され正しいことが二の次にされる現状は回避しないことにはちょっとまずい。