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ゲーリーやコールハースを真面目に批判してもしょうがない

ハル・フォスター(Foster, H)著 五十嵐光二訳『デザインと犯罪』平凡社(2002 )2011 は方々に書いた論文の寄せ集めなのでタイトルが示すような内容の一連の話しではない。しかし、もちろんこのタイトルがロースを参照したものであり、様々な意味での現代デザイン批判である。
例えば現代建築家を代表してコールハースとゲーリー批判がなされる。ゲーリーの形態は輪郭と構造が乖離しているという意味で自由の女神と同じでありそれによって驚きを与えるのではなく人々を煙に巻き方向感覚を失調させる。さらに、こうした珍奇な形状は場所との関係を切断する。
確かにその通りである。でもそれがどうしたと言う気にもなる。ビルバオ行ってグッゲンハイムを見れば確かにこれがこの場所と何の関係も無いと感じる。でもだからいいと思った。コールハースも同じだ、彼のどの建物がその場所と関係性を持っているだろうか?(いやもちろん無くは無いが最近の多くモノには無い)。でもだからどうした?
彼らは普通の建築家では無い。一つの都市には余り多くは必要ないが少しは必要である視覚的アイコンを設計することを許された建築家なのである。だから形がどうあろうとこの二人に関してごちゃごちゃ言うのは野暮である。それより問題なのはこうしたアイコンがギードボーの言うところのスペクタクルになってしまっているということである。すなわち「イメージと化すまでに蓄積の度を増した資本」であると言う点である。
公共のごく一部の建物を除いて彼らの巨大な彫刻はグローバル社会の資本の渦の溜まりなのである。いや彼ら二人だけではないかもしれない。新自由主義の滓が形になっているというその事実が問題である。
昨日ニューヨーク大学で経済を学んで外資の銀行に勤めて止めて建築を学び始めた二部の学生に言われた。「ミルトン・フリードマンにノーベル賞を与えたのは世界的な大失策であると言われている」と。その通りだ。そしてその大失策の結果世界に偏在した金が形になり下手をすると称賛されるということが問題なのである。
それがどんな形であろうと知ったことではない。

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