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林昌二逝く

今朝林さんの訃報が毎日新聞だけに掲載された。朝日に載ったのは夕刊である。おそらく何か複雑な状況があったのだろう。

公の追悼の言葉は公の誌面に載せるのでここに記すのは極めて私的な独り言である。

僕は林さんの中学の後輩であり、大学の後輩であり、そして会社の部下だった。でも大学の後輩として何かつながりがあったわけではなく、会社の部下として多くの密接なつながりを持っていた他の部下以上の関係があったわけでもない。ただ中学の後輩であったことはいくつかの特別な関係を僕に与えてくれた。

林さんはよく僕ら(中学の後輩を)を食事に連れて行ってくれた。何か面白い建物ができると誘うのである。菊竹さんのメタボリックなホテルが上野にできた時もご飯に連れて行ってくれた。林さんの家に行ってお酒をごちそうになることも何度かあった。
飛行機好きの林さんはそんなときよく飛行機の開発の歴史を話始めた。そして現代の巨大旅客機ボーイングの時代で進歩が終わる。そこで飛行機の話は終わりその続きが建築界につながり日建もそんな状態だとぼやいていた。

中学(旧制)には建築家の会がある。林さんの4つ上に三輪正弘一つ上に穂積信夫、桐敷真次郎、岡田新一、二つ下に鹿島昭一、三つ下に高階秀爾、五つ下に藤木忠善、更に下の方に益子、片山と続く。とんでもない建築家山脈である。この会は何か会員がいい建物を作るとそこに集まって酒を飲んだ。僕のリーテム東京工場が芦原義信賞をいただいた時もバス一台で見学しその後宴会をしてくれた。その時ぜひ林さんに一言と思ったが、残念ながら所用で欠席だった。しかし祝電を送ってくれた。そう言う時に決して礼を欠かないのも林さんである。

僕と僕の伴侶は中学の同級生なのでそろって林さんの後輩である。そんな理由から林さんに結婚式での乾杯をしていただいた。お礼の意味でその後季節の挨拶をお送りすると、林さんは社内の人間からそういうものは受け取らないと言って返送された。数日前、家で今年の歳暮が話題となった時、もはや社員ではないのだから林さんにお歳暮を贈ろうとかみさんに言うと彼女は「それより元気なうちに会いに行こうよ」と言った。そうだよなあと思っていた矢先に今日の訃報が届いた。亡くなったのはかみさんと歳暮の話しをした日だと知った。林さんが呼んでいたんだような気がした。ああ生きているうちに会っておくべき人がまた1人逝ってしまった。なんだかとても淋しい。

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