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歴史を知るとは歴史から自由になるということ

西谷修『世界史の臨界』岩波書店2006を読み始めた。
「世界史とは世界の歴史ではない。<世界>として歴史を語り始めることを可能にした一つの文明の運動、グローバルな現実を作り出したヨーロッパ近代のプロジェクトの名である」というのがこの本のコンセプトである。なるほどさもありなん。
六本木でアメリカのモダンアートの歴史を見ながら、僕らはこうした歴史的な展覧会をもっともだと思って見てしまうのだが、これはまさに歴史家の一つのプロジェクトだと思った方がいいhttp://ofda.jp/column/。身近な例でいえば近代建築史なんて言うものはまさにそれ以外のなにものでもない。ペブスナー、ギーディオン、バンハムたちによって作られたモダニズムを僕らは何の疑問も持たずに受け入れていたのだが、ある時それはおかしいと皆が思い始めた。そしてそれをなんとかひっくり返そうとしたのだがフランプトンである。そうやって歴史はどんどん作り変えられる。しかしこれがまた歴史の難しいところだが後から唱えられたものが必ずしも正確であるかどうかなど分からないのである。
その昔多木浩二の西洋建築史の連続レクチャーを聞きに行ってどうして多木さんは西洋建築史をやるのか(日本建築史ではなく)と質問した。すると日本には理論が無いからだと言っていた。しかし本当だろうか?確かに理論書は少ないけれど現存する史料で歴史が組み立てられないことも無いではないか。それをやらないのは日本のそれをどんなにがんばって組み立ててもそれは日本に閉塞し、グローバルなプロジェクトにはならないからだと邪推したくなる。そしてもっと言えば、結局歴史が現代を拘束するたがになっているのであれば日本の現代建築にたがをはめているのは日本の歴史ではなく西洋の歴史なのだと多木は言いたかったのかもしれない。
そして最も重要なことはそうしたたがからどうしたら自由になれるかと言うことを歴史を通して知ることである。そのためにこそ歴史はある。

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