ケアは金で買う
朝一で水戸へ。車中クライアントとスケジュール、予算の話をする。構造は木造にすると言ったら意外そうな顔をする。木は耐久性の点で不安だと言うので模型を見せる。構造を露わにした荒々しさを作るには木が最適と説明。模型を見て納得してくれた。現地で周辺状況や展示する屏風を確認、採寸。昼をいただきスタッフは市役所へ、僕は東京へ戻る。
帰りの車中上野千鶴子『ケアの社会学』太田出版2011を読み始める。上野千鶴子ケア学の総まとめである。500ページ近い大部の書。先ずはケアという概念の捉え方が上野流である。すなわち上野にとってケアとは家事労働と同等に極めて社会構築的概念なのである。つまり家事、育児、セックスはある文脈では愛の行為であり、ある文脈では労働となる。加えてこれらは有償の場合もあることで無償であることが問題化される。ケアも同様で、ある文脈では倫理的行為であり、ある文脈では重荷となる。そして有償にもなることによって無償であることが概念化される。
こうしたケア概念の捉え方によってこの行為の問題系が鮮明になる。ケアとはもともと個人的なできごとであり社会的問題ではなかった。それは家事と同じようなものである。しかしこれらを個人的領域から政治的領域に引きずり出すことで初めてこれらがproblematize(問題化)されたと上野は言う。
しかしケアが社会問題化したのは何も学者の力によるわけでもない。一言で言えば大家族の時には同居している子供によって可能だったケアが、核家族化及び嫁の労働によって困難な時代になってきたのである。その時ケアは子供ではない第三者の手に委ねられ、それをするべく公に財源が無い時、商品化され巷に出回ってきたわけである。ここにケアは社会現象として現れざるを得なかったわけである。
昨今我々の親世代を見ているとケアのグレードの差に驚かざるを得ない。簡単に言えば金のある人は豪華なケアを買えるということである。