原子力問題
現代思想五月号「東日本大震災特集」を読む。32編の論考を全部ではないが時間の許す限り読んでみた。と言うのも昨今のメディア報道がひどく無意味に感じられるからである。そもそもスポンサーがついているテレビや新聞、パニックを回避したい政府、そして責任当事者である東電、どれをとっても原理的に真実を報道しにくい状況にある。となれば2次資料でもいいから違うソースで、情報を大量に仕入れないことにはある正確性にたどりつけない。
地震と日本/柄谷行人
「無責任の体系」三たび/酒井直樹
「未来」はどこにあるのか/西谷修
傷は残り、時おり疼く/森達也
ヒロシマからフクシマへ/関曠野
福島原発大震災の政策的意味/吉岡斉
ゲンパツを可能にし、不能にしたもの/飯田哲也
軍事支配の下流に置かれた「平和利用」/梅林宏道
封印された「死の灰」はそれでも降る/小松美彦
「安全神話」は誰が作ったのか/ 高橋博子
原爆投下以後、反原発以前/山本昭宏
東京を離れて/矢部史朗
ハイブリッドモンスターの政治学/土佐弘之
おそらく『現代思想』とて編集長のバイアスで筆者は選ばれているのだからここにも真実があるかどうかは怪しい。しかしここでは多くの論考を読むことで確率的にそうしたバイアスを少しでも取り除けたと仮定する。そのうえで最も信頼できそうな考えから僕が共感できたことを二つ記しておきたい。
一つはなぜ原爆を受けた日本が原発を採用してきたかと言うことである。それを説明した飯田哲也の論考は説得力を感じた。日本には環境をめぐる社会的ディスコースが形成されてこなかったという理由である。余りに軽薄な知識人的人間のその場しのぎの言葉しか世論形成の土台になく、そのため日本を決める決定事項になんの批判も生み出せなかった。そんな知の空洞化が原子力を「安全なものとして」容易に受け入れてきたというわけである。
二つ目は原子力採用の可否についてである。エネルギー問題にかかわらず、我々がある政策を採用する時にはそのメリットとリスクをパブリックに議論することが重要だろう。しかし原子力問題だけはそうした天秤にかけて検討する問題ではないのではという土佐弘之の議論も正しいように思えた。かれはハイデガーの次の言葉を引用する
「我々は必要に足りるだけの燃料や動力源を、何処から獲得してくるかと言う問ではありませぬ。決定的な問いはいまや・・・<表象する>ことが出来ない程大きな原子力を一体如何なる仕方で制御し、操縦し・・・どこかある場所で檻を破って脱出し、いわば出奔し一切を壊滅に陥れるという危険に対して、人類を安全にしておくことができるかと言う問いであります」
やや情緒的に聞こえるこの言葉の中で、「<表彰する>ことができない程大きな原子力」という認識に注目しておきたい。桁違いの大きさは桁違いの危険をはらむ。その点は結局切り捨てられてしまうわけである。であれば最初からそれを存在しないものとして考えるべきなのである。
世界には原発電気供給をしていない国もあるようだ。オーストラリア、オーストリア、デンマーク、イタリアなど、そうした国を見習う方が正しい選択と思われる。
以上二つの内容は今回の原子力問題における僕の考え方の基礎となっていくと思われる。