アーキテクチャはルーズであるべき
朝暑くて目が覚めて寝られなくなった。北田暁大編『自由への問い―コミュニケーション自由な情報空間とは何か』岩波書店2010を読む。最近自由とか正義とかの本が続く。
近頃よく耳にするアーキテクチャという概念がある。アーキテクチャとは我々の行動を規制する物理的環境と言われている(物理的環境といってもネット上の規制も指すのだが)。たとえば CDのコピーコントロールのようなものや、大学を取り巻く塀などを考えてみよう。この場合、我々はCDをコピーできないし大学のキャンパスに入れない。それはそういうことをしてはいけないというルールがあるからその行為をしないのではなく、端的に物理的にその行為ができない状態にあるからしないのである。つまり「アーキテクチャ」のもとでは行為の自由が最初ら与えられていない。このことを北田は「アーキテクチャは、私たちから自由の剥奪感そのものを剥奪するのだ」と表現している。この指摘は重要である。僕らは知らぬ間に不可視のアーキテクチャに包囲されて、ありうべき自由空間を見失っているかもしれないということである。レッシングはネット空間の中でのそういう規制をルーズなものにせよと指摘したがリアルな空間でもそうあるべきと僕には感じられる。禁止事項があるのはいいとして、その禁を破る可能性とその場合に起こる事態に人々の想像力が及ぶべきである。もし多くの人々がその想像の結果それを望みかつそれが正しいことであるならば、その禁は外されるべきである。しかし最初から禁の可能性が見えない世界では我々は可能性の一つを鼻からどぶに捨てていることになってしまうわけである。それは惜しいことだ。