« 野沢北高校で出張講義 | メイン | アーキテクチャはルーズであるべき »

マイケル・サンデルを読み、我を振り返りその無意味さを思う

僕が建築を今こういうかたちでやれているのはなぜだろうか?多少建築の才能があったからだろうか?学生時代に製図の成績が上位5人くらいの中にはいたのだから他の人よりかは製図に関しては多少才能のようなものがあったと言えるかもしれない。といったって高々50人のクラスの上位一割である。日本全体で見たらそんなものを才能と呼べるのかは謎だ。しかし僕はその才能のかけらのようなものを努力して磨こうとしたかもしれない。それに関しては多少の自負もある。ちょっとした才能と努力。それが僕の今の基礎にある。ではその才能と努力は僕という人間が保持している輝かしい価値なのだろうか?それによって大儲けして(なんてことは考えにくいが)豊かな暮らしを十二分に満喫したとしてそれは当然のことなのだろうか?職を失って貧困生活に喘ぐ人たちがたくさんいたとしてもそれは才能と努力が足りないといって打ち切れるのだろうか?
ジョン・ロールズの考えに従えばそうはいかない。才能はたまたま授けられたものであり、それは僕が偶然手にしたものである。では努力は?それこそ僕固有の資質ではないか?と思いたいがロールズはそう言わない。努力する資質は育った環境や親の教育によって身に付いたものであり、自分が自ら培ったものではない。つまり才能と努力は偶然と周辺環境によって授けられたものであり、それによって達成されたさまざまなことは僕が自信を持って僕のものだという権利はない。とロールズは言う。しかしだからと言ってそれを全部放棄せよということも言わない。ロールズの格差原理とは「個人に与えられた天賦の才を全体の資産とみなせ」というのである。
塩山の現場定例の行き帰りの電車でマイケル・サンデル『これからの『正義』の話をしよう』を読み終えロールズ理論を我が身にあてはめてみた。天賦の才などあるわけないのだが、思考実験としてあえてあると考えてみた(とりあえず失業して苦しんでいるわけでもないのだから)。しかし仮に僕のちっぽけな才能を社会全体の資産とみなしたところで才を持たない者の状況など改善する余裕はこれっぽっちもない。いや建築なんてやっている人間で才能のありそうな多くの人を想像しても、彼の彼女の才能が全体のものだとしても状況は全く改善されないだろう。というわけででこういう思考実験の対象とするべきはこの業界の人間ではないし、まして僕という人間でもない。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://ofda.jp/lab/mt/mt-tb.cgi/4798

コメントを投稿