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ある時期池袋は日本の文化の核だった

昨日のレントゲンを見ると背骨が少し曲がっており、真っすぐにするのにティラピスがいいと言われて行ってみた。終るとすっきりした。効果があるかもしれない。
事務所では発注期間中に不足している模型スタディを回復するべくやるべきことのリストを作る。順番が逆だがあの設計期間中にはとても無理だ。
数日前、今年の東京コレクションにも出ていたT美大のS君が「フレームとしての建築」のコンセプトに賛同して是非僕の所で働きたいとメールをくれた。今スタッフは募集してないと言ったのだが、ではポートフォリオだけでも見て欲しいという。送られたポートフォリオはアルドロッシを彷彿とさせる。小さいけれどちょっと惹かれるものだった。なんて返事を書こうかと思っていたらオープンデスクでもいいから働かせて欲しいとまたメールが来た。修士まで出た人をオープンデスクに使うのは主義ではないのだが熱意に負けた(ポートフォリオの魅力に負けた)。
帰宅後、田口久美子『書店風雲録』ちくま文庫2007を読む。著者はその昔の池袋西武の中にできた本屋、「リブロ」の店員だった人(因みに永江朗氏もここに勤めていたはず)。リブロがどのようにして、ああいう個性的な本屋になったかを記した本である。リブロが出来たのは1975年。僕は高校1年生である。西武池袋線の大泉学園から有楽町線の護国寺まで通っていた僕は池袋で電車を乗り換えていた。放課後サッカー部の練習が終わると西武線沿線に住むクラブの友人と帰宅した。その中に朝日新聞に行ったMと練馬区役所に務めたKがいた。練習後は彼らとたいてい学校近くで大びんの炭酸ジュースを飲んで一休みしてからしばしば池袋の本屋に立ち寄った。MとKは文系で小学のころから格段の読書量があり理系の僕に読むべき本を指南してくれた。しかし行く本屋はリブロではなく芳林堂書店。駅から少し歩くが、文庫本の備えがとてもよく高校生向きだった。リブロの本はなんだか面倒臭いし高かった。というわけでリブロには高校時代は滅多に行かなかった。それが大学に入るころに西武美術館に通うようになり美術館脇にある洋書のアール・ヴィヴァン(今のナディフの前身)そして和書のリブロとお決まりのコースになった。とは言え、大学当時は未だリブロの品揃えに敏感に反応するほど物知りでは無く、アール・ヴィヴァンの方が遥かに面白かった。その後池袋にはあまり行かなくなってしまったが、あの頃は明らかに日本の文化の一つの核が池袋にあったように思う。それなりに熱い場所だったと思う。

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