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公共性

朝スタッフが来る前に、週末レクチャーのパワポを作る。ほどなく最初のスタッフが来たので途中で終了。仕事モードに頭を切り替え工務店にネゴの電話。ネゴった数字をクライアントに送る。電話で感触を聞く。別件の見積もりを見ながら、入札前の最終図面のスペック調整をする。昨日今日と一日数字と睨めっこである。
夜のアサマで長野へ。中村良夫の『都市をつくる風景』を読み続ける。彼は日本の都市に世代を超えた継続性と公共性が欠如していると指摘する。そうだと思う。しかし日本もその昔は公共性が結構あった。江戸の様子を細かに知っている訳ではないが、テレビに登場する、あるいは江戸情緒の残る下町を見れば、開かれた家の前に公共の場が生まれていたであろうことが想像される。しかるに明治以降、街に背を向けた家が連続するようになり一挙に自分の家の中しか考えない「心」が生まれてしまう。
多分そういう閉じた家の出現の一因には家に入ってすぐに玄関、靴を脱いで我が家という家の構造の変化があるのではなかろうか?江戸の開かれた家には土間のようなものがあり公が家の領域で一気に断絶することはなかったのでは。また例えば僕が住んでいたアメリカの家で言えば家の前には開かれたフロントヤ―ドがありそこに連続するリビングが道に開かれて(外から見えるように)あるわけだ。そう言う家に住んでいれば当たり前の話だが、庭は公共のものであると同時に自分の家の中から見える重要な風景なのである。こうした土足が連続する土間やリビングに住む人は家の外への意識が高くなるのは当たり前である。当然そこに公共への眼差しが生まれながらに育まれるはずである。生まれた時から公から切り離されたマンションに育った子供はかわいそうである。どこかで外への意識を作ってあげなければ一生公共性を身につけることはできない。

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