1968年を体現した本と本屋
午前のアサマで長野へ。車中、福澤一吉『議論のルール』NHK出版2010を読む。ルール自体はありきたりなことしか書いていないのだが、分析の題材が「爆笑問題のニッポンの教養」と「国会答弁」。著者によればテレビ番組的な受けを狙った議論のルールの破壊が国会答弁にも起こっているという。確かに新聞でも滅多に読まない国会答弁をきちんと読んでみるとかなりひどい。結局国会という場所は議論をする場所ではなく、自らの優勢を限られた時間の中で見せびらかすパフォーマンスの場でしかないことがよく分かる。国会が中継される場合はなおさらであろう。芸人みたいな首相が二度と出てこないようにするためにはもう国会中継などやめた方がよいのかもしれない。
午後一で大学院の講義、そしてゼミ。今日の輪読は懐かしき『建築の解体』。今の学生には今一つピンと来ていないようにも見える。そもそも1968年の意味からして80年代生まれの彼らには遠く昔のことである。夕飯の後『書店風雲録』(リブロのお話)を読み終える。リブロをリブロたらしめた中心人物は全共闘世代。つまり1968年の人たちなのである。そしてあの時代こそが良くも悪しくもポストモダニズムという歴史の折り返し点を作ったのである(きっとリブロにも『建築の解体』が並んでいたはずだ)。それがリブロを作った。つまりリブロはポストモダニズムの本屋だった。それが20世紀の一つの文化の核たり得た。リブロは経営的な問題で変遷しもはやあの頃の状態ではない(と思う)。本屋の趨勢は図書館のような大型本屋(ジュンクのような)か小さな個性的本屋(南洋堂のような)へ2極分化している。売る方と買う方が共に熱くなるような場を共有することは当分ないのかもしれない。