時間的経過の生みだすものは?
9時に丸善。40分本を物色。自宅に宅配。久しぶりに最新物価版も購入。9時48分のアサマに乗る。これは大宮、軽井沢しか止まらない最速アサマ。車中、暮沢剛巳の『ア―トピック・サイト』美学出版2010を読み始める。暮沢さんの著書は数冊読んでいたが、お会いしたのは先日の出版打ち上げの時が初めて。温和ないい方。青森出身とは知らなかった。午後の講義。今日はhistoryとmemoryを一度に行う。期せずして今日研究室にHistoric Houses in the Engadin Architectural Interbentions by Hans-Jorg Ruch Steidl 2009が届く。この本は建築家Hans-Jorgの作品集である。彼が事務所を構えるスイスEngadinにおける建築的介入(intervention)の記録である。6~7個の作品はどれも16世紀くらいの建物の改修なのだが、タイトルのinterventionが示すように単なるrenovationではない。どれも新しい何かが挿入されている。そしてその挿入物は理屈なく不思議な形をしている。しかしよくよく見ていると、もともとの16世紀の殻も現代的な合理的な視点からすると実に不思議な形をしている。それを非合理だと言うのは今見ているからであり、当時の視点からすれば合理だったのかもしれないし、合理などと言う視点は無かったのかもしれない。それは分からない。いずれにしても時の経過と言うのはこうした「不思議」を生み出すのである。古いものには経年的価値と歴史的価値が付着すると言われるが、それは意味論的な価値であり、モノそのもに目を目ける時そこにはこうした「不思議」が登場するはずである。そしてその不思議に異議を唱える者はいない。既存のものには文句を言えないのである。
夕方僕がコーディネートしている異分野レクチャーシリーズ2010の第一回。今日は農学部の北原曜教授を招いて森林についてお話頂いた。森の公益的機能など知っているつもりで情けないくらい無知である。森の最も重要な機能の一つが地表の侵食防止であるとは予想外である。それにしても木には実に多くの機能があるものだ。