ザ・ヒューレ(質料)
信大の大学院の授業で拙訳『言葉と建築』を教科書として使っている。そして毎週講義のホームページに小さな問いを書きその答えを要求する。
先週の問いはこうである。
「デザインとは概念(イデア)とモノ(モルフェとヒューレ)との相克であるというのがつまるところの今日の話なのだが、建築を見ていると、ああこれはイデア先行型だよなとかモルフェだけだよなぁとかヒューレだけでモルフェがないなあとかそのバランスが悪いものが多々あるのではなかろうか?僕の建築も当初イデア先行型だと坂本先生に批判されたのはArchitecture as Frameを読んで頂けると分かると思う。そこで君の経験した建築においてイデア、モルフェ、ヒューレの視点からそのバランスについて批評してほしい」
これに対して、「モダニズムはイデア先行型建築であり、大学の製図もイデア先行型であり、そんな建築に興味はない、僕はモノの建築が好きだし、作りたいという」というような答えを記す学生が少なからずいた。
そんなレポートをウエッブ上で読んだ後、期せずして先日お送りいただいた『竹原義二の住宅建築』toto出版2010の写真をめくった。「これぞまさにモノ建築!!!」思わずため息が漏れた。ここには概念で建築を語ろうなんてみみっちい作法は無い。「張りつめたプロポーションが作り上げるモルフェの緊張感と、ウソ偽りの無いヒューレの衝撃である」。なんて勝手に竹原宣伝マンになったような気分でページをくくると藤森論文に遭遇した。題して「竹原城の謎」。一体何が謎かと言うと、竹原義二の仕事はその独特の作風を知ってはいても言葉にできないというのである。曰く「言葉という道具は、トンガッタ思想やデザインを把むには適していても、誰にでもすぐわかるような目立つ先端分をもたない存在にはむいていない」これぞまさに竹原がイデアを後景化しモノを先行しながら建築を作っていることを物語っているのである。しかし、ヒューレのヒューレたるは写真なんぞでは分からない。一度本物を見たいものである。竹原さん今度見せてください。