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越境する批評の可能性

午前中ゼミ。暖房の効きが悪い上に外装工事をしていて窓が全開にされる。寒くて集中力が切れる。午後は製図のエスキス。これもどういうわけか暖房が故障。今日はたたられている。夕食後学生の就職相談やら、クライアントに電話をしたりで遅くなった。乗れた電車は9時。車中思想地図vol5の佐藤俊樹の論考「サブカルチャー/社会学の非対称性と批評のゆくえ―世界を開く魔法・社会学編」を読む。これは昨日読んだ北田の論考が多く依拠していたものである。つまり、この中に北田が思想地図を降りる理由がもっと明快に書かれているはずなのである。そう思って読んでみると期待を裏切らない内容であった。彼の論理はこうだ。サブカルも社会学も売れるものと売れないものがある。一方サブカルも社会学も先端をゆくものがある。そして売れるものが必ずしも最先端のものではない。しかるに0年代の批評なるものは最先端のサブカルを売れる社会学で説明しようとすることでねじれ現象を起こしていると問題提起する。そして売れた(ている)社会学者として宮台と大澤の批判をする。そして結論は最初の問題提起に戻り、それら売れた社会学のみを使った0年代批評の批判となるわけだ。この批評の担い手の実名は挙げられていないがそれは言うまでもない。そしてこの批判こそが、その人間と手を組んで批評を連ねる北田を思想地図から引きずりおろす原動力となったことは想像に難くない。ここにはアカデミズムとジャーナリズムの相克に加え領域を超えた批評の在り方が批判的に語られている。個人的には建築を社会学的に語ろうと思っていた(もはや昨日その野望は捨て「社会的」程度に格下げしたのだが)僕にとってはまたしても厳しい文章である。しかし人文の知による数理的な知の乱用は言うに及ばず(アラン・ソーカル『知の欺瞞』)建築学に越境してくる知に我々もたびたび違和を感ずる。表象やら美学の議論が建築を語り始めると思弁的過ぎるか制作を無視しているかでリアリティを感じないことが多い。それでも僕は越境を良しとしたい。専門分野を越境する時には欺瞞や誤謬やケアレス・ミスは起こり得る。もちろんそれはあってはならないことなのかもしれないが、それでも戦線縮小して自からこの殻に閉じこもっていては学の閉塞が学の鮮度を低下させると信じて疑わない。批判を恐れず行動する勇気が必要だと思わざるを得ない。

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