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「貝島さん」は女性原理か?

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午前中、修論、卒論ゼミ。設計組は今年からレジメは要らないので「A1一枚に何か表現して持ってくるべし」という指示をした。これが結構面白い。訳のわからない言葉を並べられて苛立つよりか、よほど精神衛生上いい。しかしいつかはレジメを睨んで言葉が出なくなる日が来るのかもしれない。そう思うと何時苛立つかだけの問題のようにも思うのだが。午後は製図。課題の最初はいつもコンセプトをA3にポスターのようにまとめさせるのだが、これがまあひどい。
帰りのアサマで貝島さんに頂いた『建築からみた まち いえ たてもの のシナリオ』INAX出版2010を読む。かきおろし半分、既往原稿半分の本である。こうやって読ませていただくと、今まできちんと彼女の文章を読んだことが無かったことに気づかされる。読みながらふと昨日まで読んでいた『「女の子写真」の時代』の最終章を思い出した。それは写真における男性原理と女性原理と題して90年代に始まる女の子写真の女性原理とは何かを分析するものである。そこで著者は宮迫千鶴の80年代の書『〈女性原理〉と「写真」』(国文社1984)を参照する。この書では細かく男性原理と女性原理が提示されそれがそのまま飯沢の本に引用されている。そして著者は90年代初期の「女の子写真家」が極めて女性原理的だったけれど、90年代後半の特に蜷川に至ってはもはや女性原理だけでは説明がつかず両性具有的であると結論づける。
貝島さんも「女の子写真家」同様90年代に登場したのであり、女性原理が支配しているのかと考えてみたくなる。確かにそういうところはある。例えばこんな原理を彼女の文章に感じる「〈男性原理〉は普遍化された感情によって「私」を見失い、〈女性原理〉は固有化された感受性によって「私たち」を見失う」。貝島さんの本では殆どの文章で私が登場し、そして対象の何かに関連する固有の誰かが登場する。決して誰がそう考えているか分からないような「〇〇はそう考え得る」。などという分析的抽象的論文的な語り方はない。これは宮迫の原理によれ女性的である。しかしそれでは、貝島さんが一方的に女性原理に支配されているのかと言えばとてもそうは思えない。そもそも東工大の博士課程に進もうなどと言う時点で男性原理に突入している。さらに言えば夫とタッグを組んで建築を作ろうなどいうことも既に女性原理を半分放棄している(まあ彼女の夫が男性原理の人であるかどうかは検討の余地があるのだが)。つまり彼女の語りは女性原理に包まれながら、その本質のあちこちに男性原理が残滓の如く見え隠れするのである、、、、、、と書いてきて本当だろうか?とはたと考える。確かに彼女の生き方や作り方は両性具有的かもしれないが、やはり文章は読めば読むほど女性的かもしれない。

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