女?日本?美?
やはり風邪っぽさが抜けない。マスクしながら研究室でコンペのプランを整理してみる。いろいろな可能性を発見するのだが、スタディの仕方がどうも違うと感ずる。プランを整理する前にやることがありそうだ。ヨーロッパのコンヴァージョン事例集を眺める。手法を整理すると、挿入するか、被せるか、分割するか、後はその組み合わせである。それはまあ手法であって、一番大事なのはその結果生まれた状況である。その状況は写真じゃ分からない。距離感が伝わらない。この距離感を操作したいのだが。そのためにはどこからやるべきなのだろうか?
午後は明日の試験の説明書や、緊急事態のQ&Aに目を通す。やりたくないが、仕方ない。このQ&Aが山のようにあって閉口する。夕方やっと終えると風邪の頭がぼーっとなってうたた寝。
気を取り直して、原稿のために、こちらに置いてある本をまとめてチェック。石本泰博の『桂離宮』の磯崎論文に目を通す。磯崎論文が読みたいのではなく、磯崎が紹介する丹下の引用が読みたかった、丹下は桂を縄文と弥生の結合と位置付けている。今とりよせている本で、梅原猛もそう主張しているようだ、かたや谷川徹三の本ではもっと2元的な筋のようである、、、本棚を眺めていると面白い本を発見。男女性をやり始めた時に購入してほっぽらかしていたもの。熊倉敬聡、千野香織編『女?日本?美?』慶応義塾大学出版会1999。その本の熊倉の序文を読んで冷や汗。曰く「『日本美術のジェンダー』は往々にして『男性性/女性性』の二項対立的表象で言説化されやすい」、曰く「―上野千鶴子も言うように―暗黙の裡に『西洋』=『父』=普通 / 『日本』=『母』=特殊というオリエンタリズム的表象を繰り返している、、、、、」何が冷や汗かと言えば、男性、女性の2言論、西洋男、日本女の2言論に陥りそうな昨今の自分の思考に冷や汗なのである。もちろんその中間のグレーゾーンが常に僕の思考では重要な部分なのだが、正直言うと事例探索でも言説探索でも、そんな美味い例は見つからなくて、ついつい分かりやすい方へ傾斜してしまっている。時にこういう頭を冷やす言葉に出会わないと危険である。一昨日のかみさんの指摘はまさにこうした単純な二元論に対する痛烈な批判だったわけである。とは言え、建築を語るときにどこまで既成権力を相対化せねばならないかは難しいところだが。