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音楽VS建築

午前中甲府に打ち合わせに向かう。政権交代の影響も少しあろうか半年遅れは確定となった。来春くらいまでこのプロジェクトは塩漬けである。鮮度が落ちないように密閉して保存しておこう。下手に触ると腐ってしまう。
スタッフは東京へもどり僕は松本経由長野に向かう。車中一昨日あとがきを読んだ『音楽の聴き方』を読み始めた。序文を読んで少なからず驚いた。音楽鑑賞をワインティスティングになぞらえている。これは僕が『建築の規則』に書いたことにかなり近い。曰くティスティング(批評する)する言葉が増えればその対象に対する趣味は洗練されていく。同感。そして目次を見てさらに唖然。音楽を感性で捉える次元の一章、次にそれを語る言葉を探す二章、さらに言語としての音楽としての三章と続く。まさにこの建築版をやろうとしたのが『建築の規則』だったわけである。つまり建築を言葉で語るにはどうしたらよいのか?そのヴォキャブラリーを差し上げましょうというのがそもそものあの本の発想である。というのもあの本のネタは東大美学でやった講義ノート。つまり建築を作る人間ではなく語る(かもしれない)人間のための言葉捜しなのであった。そしてもっと言えば『建築の規則』はあんな博論の縮小版としてではなく、こうした体裁の教養書として模索していたのである。うーん音楽版として先に書かれてしまったのは嬉しいやら悲しいやら。こうなったらしっかりこの書き方を見せて戴き建築版を物したい。と思いつつ音楽を感性として感受する第一章を読みながらちょっと違うことが気になりだした。もし建築版を書くとして、こんな風に建築を感性で受け取り、建築と共鳴しようなんていう内容が成立するだろうか?という点である。つまり建築を見る感動と音楽を聴く感動はどうも性質がかなり異なるように思うのである。というか、、、、一言で言うならば建築の感動メーターの振れ幅は音楽のそれに比べて小さくてゆっくりと長い。どこの国だったか忘れたが、荘厳なチャペルに入ってそのステンドグラスの明かりに身震いしたが、その後鳴りだしたパイプオルガンの音には勝てないと思った。鳴った瞬間に勝負あったという感じである。もちろん音楽も建築もいろいろあるから一概には言えないのだが、でもこれは聴覚と視覚の持つ生理学的な機能差によるのではないかと思うのである(そう思わないとなんだかとっても不公平な気がするし音楽へのジェラシーが絶えない)。つまり何が言いたいかと言うと、そう簡単に建築の感性受容の問題は語れまいと思うのである。もちろんゴシック建築をずらりと並べて語るのなら(ゲーテのように)まだしも、現代建築でちょっと厳しい?????

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