アートの賞
夕刻クライアント来所。大分迷ったのか道が混んでいたのか1時間ほど遅れていらっしゃった。打ち合わせはまあまあ上手く進んだ。クライアントのイメージするものとすりあって来たようである。こうなると後は役所との補助金交渉。これはこちらではあまり動ける問題ではない。しばらく打ち合わせの間隔をあけることとする。こちらは建築的な思考を進めるチャンス。とはいうもののなかなか次ぎの一歩に踏み出す切り口が見つからない。やはり公共施設は難しい。住宅のような特殊解ではないから仕方ない。
夜たまに訪れる友人の医者のサイトで彼女のブログを読んだら、坂牛は過労死するほど働いている。あいつ(僕)は昔から体力だけはあり、雪で電車が止まったとき杉並区から文京区まで歩いて学校に来たと書いてあった。そんな記憶はまったくないが、もしかしたらそう言うあほなこともしていたかもしれない。しかし僕が過労死するなら設計事務所は死体の山。この業界にはもっととんでもない人たちは一杯いる。僕などまっとうだと思っているのだが、医者に言われると心配もする。
『現代アートの舞台裏』続きを読む。ターナー賞の選考過程が書かれている。賞ほど難しいものはない。選ばれる方も選ぶ方も数少ない経験があるけれど、最後の最後は選ぶ場合は直感でしかない、選ばれた時もその理由など不明である。もちろん選ぶ時にはその理由を考えるのだが、だれがその理由の正当性に順位をつけられようか?アートにいたっては建築の比ではない。まだ書道のように一つの道(それこそ道を)を駆け上がる芸術はクライテリアも明確で順位もつけられよう。しかるにアートの世界とはプロレスと相撲とサッカーとゴルフが一つのリングで競うようなものである。ルール無しのスポーツにどうして順位などつけられようか?この本では2006年のトマ・アブツが賞に輝く経過が書かれていた。彼女の作品は森美術館で見てとても好きだったかし、その時見た他のターナー賞受賞作品はそれぞれ魅力的だった。とは言えやはり一人だけを選ぶこういう賞にはゴシップ的な興味以外に意味があるとは思えない。