the sublime
リノヴェーション特集のTOTO通信が届きぺらぺらめくってみるとなかなか痛快な建物が載っていた。ぼろぼろになったコンクリートの豚小屋を改装して住宅にしている。その方法がいかしている。朽ちた屋根を取り外し、コンクリートの殻にはまる木の家を工場で作ってきてそれをクレーンで釣って中にはめ込み、薄い屋根をかけるというもの。朽ちたコンクリートの外皮と中の新しい木造の小屋の間の隙間数㎝が旧と新の明確な対比を生む。さらに旧と新の異なる機能が生み出す(たとえば豚に必要な窓の位置と人間に必要なそれは異なる)使い勝手のひずみが新たな発見を生む。これは始めたばかりの大多喜町コンペのヒントになりそうな。事務所で打ち合わせを終えて壊れたプリンターを修理に新宿ヨドバシへ。修理のついでに冷蔵庫のような長野の家用パネルヒーターも買う。
9時半のアサマに乗り車中読みかけの濱下昌宏『主体の学としての美学』の続きを読む。今日は志賀重昂『日本風景論』。本書の中で志賀は「跌宕」という言葉を使ってthe sublimeに相当する概念を示そうとする。現在の言葉なら崇高であろう。著者濱下はここで日本に本当に崇高なる風景があったかを検証するために中国人留学生の『日本論』を引用する。そして中国人の目から見ると日本趣味は崇高、偉大、幽雅、精緻という観点からすると前二者に対し後二者が豊かであるとしていることに注目。そして志賀が日本風景に崇高を見ようとするその姿をナショナリズムの発揚と捉えるのである。なるほど確かに、世界的に見て日本の風景に崇高を見ようとするのには無理があるという著者の見解には賛成である。日本には山がないとこの間来たスイスの建築家は言っていたが、水平に伸びる日本の山はヨーロッパアルプスと比べてその垂直性にかなわず、水平性においては大陸的なオーストラリアやアメリカの岩山にかなうはずもない。別に大きさを競うわけではないが、崇高はある意味で相対的な概念であろうから、一度それ以上大きな(水平的にも垂直的にも)ものを見た目にはもはやそうした表象は生み出さないものである。