分かること
午前中デザイン論の講義、午後製図。昼休みはm2や4年の梗概を読む。あまりに分からないので帰りがけ丸善に行って、(いつもならアートや哲学に行くのだが)、今日はハウツー本のコーナーに行く。先ずは短時間で梗概を読む力がないのだろうか?と自分を疑い、川辺秀美『カリスマ編集者の「読む技術」』洋泉社2009を。更に自分はいつも「分からない分からない」と言うのだが、ではいったい「分かる」とはどういうことなのか?ということを知るために畑村洋太郎『「わかる」技術』講談社新書2005を買った。書店の喫茶に行って斜め読み。えてしてハウツー本と言うやつは欲しい知識が得られないものだが、ひとつ分かったことは、(これはアメリカのreading授業で教わったことでもあるが)本を読むときはanticipationが不可欠ということ。つまり何が書いてあるかをあらかじめ予想してかからないと理解不能になり得るということである。川辺の本にはそう言う実例がいろいろ載っていた。クリーニング屋さんの会話とか、出版業界での会話など。言葉は簡単だが、ある種のジャーゴンが含まれているので状況を知っていないとそれらのジャーゴンの内容を推測できないのである。梗概も数が多くなると僕の知らない言葉も出てくる。それは僕にとっては一種のジャーゴンでありそれを推測するには予想が不可欠ということだ。もちろん予想したからなんでも理解できるというようなことなら苦労しないのだが。さらに分かるということはどういうことか?一つの教えは身近なところに話が敷衍出来る場合分かりやすいということ。つまり観念的な言葉が羅列されているものでもそれが具体性を帯びる場合は読者のイマジネーションに接続しやすいということだ。つまり思惟的な文章の分かりやすさはそうした言葉を選ぶセンスにかかっている。まあ現状は言葉の選択以前でもあるのだが。